願文に込められた藤原清衡公の発願とはどのようなものだったのでしょうか。

 

 ①真理そのものの世界である「(じょう)(じゃっ)(こう)()」の釈迦如来(「(さん)(じん)()(そく)の仏」)が、

 ②まず()()(しゃ)()(へん)(いっ)(さい)(しょ)として(ほっ)(しん)の理を()(げん)し、

 ③次いで私たち衆生が「(さん)()」(過去世・現世・来世)の(りん)()を繰り返す「三界(さんがい)」(迷いの世界、(よっ)(かい)(しき)(かい)()(しき)(かい))の中に、慈悲に満ちた(ほう)(じん)としての仏格を(あらわ)す。

 仏弟子清衡公は凡(                  ぼん)(しょう)(どう)()する「(かい)(だい)(ぶつ)()」の仏前に身をおきながら、

 ④「十方(じっぽう)」「三世」で衆生の機根に応じ法を説く(おう)(じん)としての(ふん)(じん)(しょ)(ぶつ)(十方尊)に思いをいたして供養し、それら諸仏の()(ちょう)(あずか)る。

 ⑤そして(しん)(にょ)(ほう)便(べん)、時間(三世)と空間(十方)を包摂(ほうせつ)して果てしなく広がる(ぶっ)(こく)()(きよ)めてゆく。

 

  ①三身具足・・・金堂の釈迦如来像

  ②法身・・・三重の塔婆の毘廬遮那如来像

  ③報身・・・三重の塔婆の釈迦如来・薬師如来・弥勒慈尊像

  ④応身・・・萬燈会供養の十方尊

  ⑤菩薩行・・・「(てっ)()()(かい)(全ての世界)、たいらん湿しつ(全ての生きもの)、善根ぜんこんおよところしょうりょうならん。(あまねく功徳が及んで勝れた利益がもたらされますように。)」

 

 「(ちん)()(こっ)()(だい)()(らん)」に先立って清衡公が寺域に建立した堂塔(どうとう)が『()(づま)(かがみ)』に「()(とう)()()(ちゅう)(もん)」として伝えられています。この注文(リスト)に記されている「()(ほう)()」には法身・()(ほう)(にょ)(らい)と報身・(しゃ)()如来を、「釈迦堂」には百余体に及ぶ応身の釈迦如来が安置されました。「(りょう)(かい)(どう)」には法身・()()(しゃ)()如来(大日(だいにち)如来)を中心に、そこから(おう)()した諸尊が安置され、「()(かい)(だい)(どう)」や「(こん)(じき)(どう)」には慈悲を体現した報身の阿弥陀(あみだ)如来が安置されました。(ちん)(じゅ)(しょ)(しゃ)の神々もまた法身仏から(すい)(じゃく)した(おう)()(しん)といえるでしょう。

 

 鎮護国家大伽藍の金堂(こんどう)に安置された三身具足の釈迦如来はまた、それ以前の清衡公の(ぞう)()(ぞう)(ぶつ)(ぜん)(ごう)をも包摂(ほうせつ)するものであり、その集大成でもありました。

 

 中尊寺の寺号には、本尊・三身具足の釈迦如来が衆生の目の当たり「(にん)(ちゅう)(そん)」「(しゅ)(しょう)(ちゅう)(そん)(注1)(しゅ)(ちゅう)(そん)(注2)なる仏・菩薩として「(かい)(だい)(ぶつ)()」に(おう)()し、「(しゅ)(きょう)(ちゅう)(さい)(そん)(注3)の法華経を説き、「三宝(さんぼう)」を満足して衆生の発願に応じる(にわ)という意が込められているようにも感じます。

 

 それは(ちゅう)(しょう)()(しょう)())()便()(ほん)(まつ)が究( く)(きょう)しながら循環する世界であり、また同時に『()()(きょう)』の説く「(じょう)(ぶっ)(こく)()」(仏国土を(きよ)める)の()(さつ)(ぎょう)に他ならないのです。

 そこには、この(みち)(のく)(かん)(ざん)一隅(いちぐう)から十方・三世を照らし、浄めてゆきたいという清衡公の切なる願いが感じられます。

 

 中尊寺で古来、正月元日から8日間にわたって修される『(こん)(こう)(みょう)(さい)(しょう)(おう)(きょう)』の「(きち)(じょう)()()」に(のっと)った(しゅ)(しょう)()においても、「()()()(しゃ)()(ぶつ)」(法身)・「()()()()()()(ぶつ)」(報身)・「()()(じっ)(ぽう)(さん)()(ふつ)」(応身)との(らい)(ぶつ)(さん)()から法要が始まります。そこにも真理の世界から現れ出た界内の仏土で菩薩の行に(いそ)しみ、三世・十方を浄めてゆくという清衡公の願いが受け継がれているといえるでしょう。

 

紺紙金字一切経見返し絵

 

1.『妙法蓮華経』「序品」に「我過去世の無量無数劫を念うに仏人中尊有しき、日月燈明と号く」、同「譬喩品」には「舎利弗に告ぐ 我も亦是の如し 衆聖の中の尊 世間の父なり」とあり、衆生の前に応化した仏を人中尊・衆聖中の尊と表現している。

 

2. 天台大師智顗『天台菩薩戒疏』には「弟子某甲等、願從今身盡未來際 歸依佛兩足尊 歸依法離欲尊 歸依僧衆中尊 弟子某甲等 願從今身盡未來際  歸依佛竟 歸依法竟 歸依僧竟」の句を三反して、仏・両足尊、法・離欲尊、僧・衆中尊の三宝に帰依すべきこと(三帰三竟)を説いている。つまり衆中尊とは僧(菩薩)を示す。

 

3.『妙法蓮華経』「薬王菩薩本事品」に「「小王の中に、転輪聖王最も為第一なるが如く、此の経も亦復是の如し。衆経の中に於いて、最も為其の尊なり。」とあり法華経を衆経中の尊と表現している。

 

 

次回「清衡公900年御遠忌 令和8年(2027)/清衡公没後900年 令和9年(2028)」へ続く。

 

 

 

 

 

 

 

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