願文(  がんもん)に記される三重の(とう)()には本尊として「(ほっ)(しん)」の()()(しゃ)()(にょ)(らい)と、「(ほう)(じん)」の(しゃ)()(やく)()()(ろく)如来が安置されました。法身の毘廬遮那から報身の釈迦・薬師・弥勒が展開し、悟りの世界から迷いの現世へ慈悲のはたらきによって仏格が姿を現す様が表現されていると考えられます。

 但し、願文に中尊寺は「(かい)(だい)(ぶつ)()」(迷いの現世にある浄土)としていることから、未来世にあらわれる弥勒如来については、今は現世で(しゅ)(じょう)(さい)()する「弥勒()(そん)()(さつ))」の姿で安置されたと思われます。

 

 そして私たちの()(こん)(修行の浅深)に応じてあらゆる場所に仮の姿で生まれ、仮に()(はん)を示して滅してゆく「(おう)(じん)」の仏が、願文では「(じっ)(ぽう)(そん)」として登場します。

 『()()(きょう)』「(ほっ)()(ほん)」には「如来の(めつ)()()()く(法華経を)(しょ)()(どく)(じゅ)し供養し、他人の為に説かん者は、如来則ち(ころも)を以て(これ)(おお)いたもうべし。又他方の現在の諸仏()(ねん)せらるることを()ん。是の人は大信力(だいしんりき)及び()(がん)(りき)(しょ)(ぜん)(こん)(りき)あらん。(まさ)に知るべし、是の人は如来と共に宿(しゅく)するなり。則ち如来の(みて)をもって其の(こうべ)()でたもうを為ん。」、また同「()(げん)()(さつ)(かん)(ぼつ)(ほん)」にも「()し(法華経を)(じゅ)()(どく)(じゅ)(しょう)(おく)(ねん)し、其の()(しゅ)を解し説の如く修行することあらん、当に知るべし、是の人は()(げん)の行を行ずるなり。()(りょう)()(へん)の諸仏の所に於て、深く善根(ぜんこん)を種えたるなり。(もろもろ)の如来の手をもって、其の頭を摩でたもうを為ん。」とあり、『(だい)(はつ)()(はん)(ぎょう)()(ぶん)』「(ゆい)(ぎょう)(ほん)」にも「(なん)(だち)(けつ)(じょう)して(しん)(ぶつ)(おん)(むく)(とく)()(だい)を得て(しょ)(ぶつ)()(ちょう)を得んと欲せば、世世(せせ)(うま)るる所、(しょう)(ねん)を失わざるべし。」と説かれます。

 

 「正念」(正しい教えを念じること)を守って生きる者は、あらゆる場所に()(げん)する「現在の諸仏」「無量無辺の諸仏」「諸の如来」、つまり応身仏である「十方尊」「(にん)(ちゅう)(そん)」「(りょう)(そく)(そん)」によって護られ、頭を()でていただくことができるというのです。

 

 清衡公が願文に述べた「(しょ)(ぶつ)()(ちょう)(にわ)」(多くの仏が姿をあらわして頭を撫でてもらえる場所・(じか)に仏に触れることのできる場所)を造りたいとの願いは、(まん)(とう)()に捧げられた香花灯(こうけとう)(みょう)と共に「十方尊」のもとへと届けられるのです。

 

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紺紙金字一切経見返し絵(部分)


次回「中尊寺落慶900年 ⑤三身の仏(三)」へ続く。