金色堂棟木墨書銘
明治30年(1897)に行われた金色堂修理の際、屋根裏の部材である棟木に墨書が発見されました。そこには金色堂の建立(上棟)年月日、大工や大行事など工事にたずさわった人々、そして檀越(施主)の名前が記されていたのです。
この墨書により、金色堂は天治元年(1124)8月20日に建立(上棟)されたことが明らかになりました。そして、来年・令和6年(2024)はそれからちょうど900年目にあたります。
金色堂は東北地方に現存する最古の木造建造物であり、また大工の名前が明らかな日本最古の建造物でもあります。
堂宇の施主をあらわす「大檀越」として「散位藤原清衡」と銘記されています。散位とは位階のみで官職に任じていない者を指します。清衡公の位階は「中尊寺建立供養願文」(以下、願文と記す)には正六位上とあります。また官職は『尊卑分脈』という後世の系図集によると「陸奥国押領使」という陸奥国内の治安維持を担当する職に任じていたとされ、願文(輔方本)奥書には「陸奥守」とあります。しかし、晩年の金色堂建立時にはすでに官職に就いていなかったことがわかります。
清衡公に続いて3人の女姓の施主が「女檀」として列記されています。
一人目は「安部[倍]氏」、これは清衡公の母、『吾妻鏡』に「有加一乃末陪」(注1)と伝えられる女性を指すと思われます。
清衡公の母・有加は陸奥奥六郡の俘囚長・安倍頼時(旧名賴良)の娘です。有加は蝦夷と陸奥国府との融和と、安倍一族への貴種(高貴な家柄)取り込みという使命を背負って陸奥国の在庁官人であり秀郷流藤原氏につらなる藤原経清と結婚します。しかし安倍氏が胆沢郡から衣川を越え、南の磐井郡に勢力を伸ばすと、陸奥国府軍との間で前九年の戦いが勃発します。経清は始め国府軍に従軍しますが、安倍氏の娘婿という立場で謀叛の嫌疑をかけられることをおそれ、安倍氏とともに国府軍と戦うことを決意しました。しかし、この戦いで経清は斬首、安倍一族は滅亡します。清衡公7歳の時です。有加は幼い清衡公を伴って出羽国の豪族・清原武貞に再嫁し、清原一族となって清衡公を守ったのです。
2人目は「清原氏」、清衡公の先妻と考えられます。
清衡公は継父・武貞のもと、継兄の真衡、異父弟の家衡とともに成長します。しかし武貞の死後、真衡が家督を継ぐと、一族の内紛が勃発し、それに陸奥守・源義家が介入して後三年の戦いへと発展します。真衡の死後、所領を巡って反目した家衡によって館を攻撃され、清衡公の妻・清原氏は、子や一族とともに殺されてしまいます。
3人目は「平氏」、金色堂建立に立ち会った当時の正妻と考えられます。
安倍頼時を祖父に持ち、藤原経清を実父に、清原武貞を継父とする清衡公は、奇しくも後三年の戦いを生き残って奥六郡を伝領します。
衣川を越え江刺郡豊田館から平泉へ移った清衡公は、安倍・清原氏の勢力下にあった奥六郡と、国府の勢力下・磐井郡の境にある関山に中尊寺を建立します。そこは清衡公の2つのルーツである「官軍」(藤原氏)と「夷虜」(安倍・清原氏)を隔てなく供養するには最適の場所でした。
正妻・平氏は清衡公の後半生の願いを支え、六男三女をもうけて清衡公と共に金色堂上棟の日を迎えたのです。
奥州藤原氏は秀郷流藤原氏であると同時に安倍氏、清原氏の系譜にも列なっているのです。金色堂建立当時には既に故人となっていた母・安倍氏(有加)と先妻・清原氏をその施主として銘記したところに、前半生に続いた戦いによって失われた様々な命、殊にも一族のルーツである安倍・清原氏に対する清衡公の深い哀悼の念を感じずにはいられません。
その日から900年、衣川から磐井郡にこぼれ落ちた一滴の精華は、今も奥州藤原氏四代公とともに千里を照らしているのです。
中尊寺菊まつりの菊飾り
注
1.『吾妻鏡』文治5年9月27日条
次回「中尊寺落慶900年 令和8年(2028)」へ続く。