藤原清衡公は長治2年(1105)、(しゃ)()()(ほう)(にょ)(らい)(びょう)()する最初院(多宝寺)を建立して以来、関山に多くの堂塔伽藍を建立しました。(注1)そして天治3年(大治元年・1126))3月24日、境内の(みなみ)(だに)に白河・鳥羽法皇の御願寺として「(ちん)()(こっ)()(だい)()(らん)(いっ)()」を造立して落慶供養法要を厳修しました。(注2)

 

中尊寺建立供養願文(部分)

 

 令和8年(2026)は、鎮護国家伽藍落慶から900年目に当たります。

 

 この伽藍落慶に捧げられたといわれる願文が今に伝えられています。

 嘉暦4年(1329)、 (ふじ)(わらの)(すけ)(かた)による奥書(おくがき)(巻末の加筆)と端書(はしがき)(巻頭の加筆)のある「輔方本」と、延元元年(1336)、(きた)(ばたけ)(あき)(いえ)19歳の時の筆といわれ「(ちん)(じゅ)(だい)(しょう)(ぐん)」の奥書のある「顕家本」とです。二本とも本文はほぼ同内容ですが若干の語句の異同があります。

 

 願文奥書によると、()()(ほう)(おう)()(がん)(実際には白河(しらかわ)法皇)(注3)、京の勅使・藤原(あき)(たか)、願文の清書・藤原(とも)(たか)(しょう)(どう)(法要の導師)・(そう)()()(こう)、願文起草・藤原(あつ)(みつ)とされ、当代一流の人々によって願文の起草・清書と法要の執行がなされたことがわかります。

 

 清衡公のこころざしは、時代の碩学(せきがく)によってその宗教的意義を高らかに(うた)いあげられたのです。

 

1.「中尊寺衆徒等申状案」(『平泉町史・史料編一』No.61)

2.「中尊寺落慶供養願文」(『同上』No.11)

3.佐々木邦世『中尊寺史稿』「第一編 寺伝及び諸説の見直し」

 

次回「中尊寺落慶900年 ②願文に現れる諸仏」へ続く。