元禄14年(1701)、金色院別当、そして一山の衆徒及び中尊寺中興二世を兼帯した仙岳院住職亮寛らによって江戸における金色堂諸仏出開帳の許可を請う2通の願書が、仙台藩へ提出されています。(注1)それらの願書に記されている内容を要約すると次のようになります。
【中尊寺は鳥羽院・堀河院二代の勅願により奥州藤原氏三代によって建立された。堂塔四十余宇の内、鎮守日吉山王・白山権現の神前において、現在に至るまで天下泰平・仙台藩主様の安全と武運長久の御祈祷を怠慢なく行い、毎年御札を献上している。しかしながら後世の火災で堂塔はみな焼失し、金色堂と経蔵ばかりが辛うじて残されている。霊仏も焼けて残り少なくなってしまった。金色堂の本尊は『吾妻鏡』に伝える三十三体が現存するものの、台座、光背は言うに及ばず、本尊は自立することもままならない。金色堂は去々年に修復していただき、末代まで伝えていくことができるが、本尊は大破して年々朽ち損じ、嘆かわしくもなすすべがない。当時のままならない世情により、倹約の奨励や幕府から仙台藩に対する御手伝普請の要請なども承知しており、藩よりの奉加金(寄付金)もご遠慮してお願いを差し控えている。かといってそのまま差し置いていれば近年中に仏像が退転してしまうことは目に見えている。別紙に書き連ねている本尊など、江戸で開帳し、その余力によって仏像を修理再興いたしたい。この願いをお認めいただければ、江戸へ登り、上野(寛永寺)の輪王寺宮様(公弁法親王)より幕府へお取り次ぎいただくようお願いしたい。幕府が願いの通りお認め頂ければ、来る元禄十五年か翌十六年の内に江戸において開帳を行いたい。本尊等を江戸へ運ぶ費用は自己負担にて行いたい。他国においても古跡の仏像を江戸で開帳することがあると聞いている。願いの通り開帳を仰せ付けられますよう、一山相談の上、申し上げる。どうかご憐愍をもってお聞き入れ頂きたい。】
戦前の金色堂
「去々年」の金色堂修復とは、元禄12年(1699)に行われたもので、その修理の棟札と納札が残されています。(注2)
それらによると、仙台藩4代藩主・伊達綱村公を檀主、金色院住職亮潭を導師として10月3日に竣工法要が営まれました。その工事内容は、奥州藤原氏の御遺体を仮堂に移した上で、部材の曲がりを直し、添え柱を立て替え、縁板を敷き替え、柱の朽損部を根継ぎし、さらには覆堂屋根を一式葺き替えるという、かなりの規模のものでした。(注3)
(次回「金色堂諸仏の出開帳(下)」に続く。)
注
1.「金色堂諸仏出開帳願写」「中尊寺宗徒中開帳願写」(『平泉町史・史料編一』294号・同295号)
2.「元禄十二年金色堂修覆棟札」「金色堂納札」(『平泉町史・史料編一』補遺・付録29号・30号・31号)
3.『国宝中尊寺金色堂保存修理報告書』「金色堂修理の史的展望(金色堂の沿革)」