堂修理によって建物はなんとか存続可能な状態となったものの、金色堂壇上の諸仏は相当に傷んでいたようです。ちなみに現在では金色堂壇上諸仏は西南壇(せいなんだん)の本尊は失われて代替の阿弥陀坐像を安置し、同壇(ぞう)(ちょう)(てん)像も失われて平成に(しん)()された像を安置していますが、元禄の頃には当初の33体が遺存していたようです。(注1)

 元禄年間も末となると財政もかなり逼迫していたらしく、さすがに立て続けに藩に修理の補助を願い出るのには遠慮があったようです。

 そこで江戸での出開帳という方法で金色堂諸仏の修理費用を(ねん)(しゅつ)しようという策に出たのです。

 

 (しゅ)()良く仙台藩の許諾も得たようで、元禄15年(1702)8月26日には上野(寛永寺)の輪王寺宮(しつ)(とう)と、幕府()(しゃ)()(ぎょう)(しょ)へ出開帳の願書が提出されています。時あたかも芭蕉の『おくのほそ道』が刊行され「五月雨の 降り残してや 光堂」の名句が世に出た年でもあります。

 寺社奉行所は翌27日、「来年(元禄16年)は江戸における開帳があまた予定されているため、その翌年(宝永元年)の春に開帳を許可する」と申し渡しています。

 その時の幕府の記録には「三尊阿弥陀」と記されており、出開帳した仏像が金色堂諸仏三十三体すべてか、あるいは三壇の阿弥陀像を中心として選ばれた像だったのかは定かではありません。(注2)

 いずれにせよ、このようにして宝永元年(1704)の出開帳が実現したのです。

 

 ところで金色堂諸仏の出開帳の会場は何処だったのでしょうか。

 佐々木邦世師は「『隆光僧正日記』六月二十九日の条には「覚王院江参、奥州秀衡御祈祷所之本尊見之、金子五百疋持参」とある。ここにいう覚王院とは前の上野執当最純のことである。また、『護持院日記』の同七月五日の条には「七ッ時、金色院入来、右者、一位様(桂昌院)より昨日金子五十両、六地蔵御修覆料として被下之」と見える。前々日に江戸三ノ丸で「光堂本尊」を、将軍綱吉の母桂昌院の上覧に入れている。」と指摘されています。(注3)

 

 覚( かく)(おう)(いん)(さい)(じゅん)は前の輪王寺宮執当であるとともに、当時は(せん)(そう)()(べっ)(とう)に任じていました。輪王寺(寛永寺)と浅草寺とのつながりは深く、のちに輪王寺宮(寛永寺(かん)())が浅草寺別当をも兼帯(けんたい)するようになります。

 金色堂諸仏の御開帳は浅草寺を宿寺として厳修(ごんしゅ)され、のち江戸城三の丸に移され、(けい)昌院(しょういん)を始めとする貴顕の上覧に供じたと考えられます。

 

 この時代、寺社修理のための出開帳は盛んに行われたらしく、幕府の記録によると元禄16年(1703)だけで23件も行われたようです。(注4)

 

 この度の東京国立博物館への金色堂中央壇諸仏像の出展の趣旨は、金色堂建立900年にあたり、金色堂に込められた藤原清衡公はじめ奥州藤原氏の「(じょう)(ぶっ)(こく)()」希求の志、そして平和への願いをあらためて発信してゆくことにあります。

 そして、このような機会を設けることができたのも、金色堂とその壇上の諸仏をあらゆる手段を尽くしながら900年の間守り抜いた先人たちの努力の(たまもの)であると感謝に堪えません。

(おわり)

 

 

1.「金色堂諸仏出開帳願写」(『平泉町史・史料編一』294号)に「金色堂分之卅三體之本尊者、東鏡ニ御座候通相違無御座候處、」とある。

2.「開帳願差免留」(『内閣文庫・祠部職掌類聚』)に次のような記載がある。

 「            奥州平泉

               中尊寺惣代

                 金色院

 於御當地三尊弥陀開帳仕度旨午八月飛騨守

 方江願出来年中者開帳数多候間来申春

 可差免旨午八月廿七日申渡之」

つまり「来年」(元禄16年)は開帳が「数多」あるため来申(宝永元年)の春に金色堂諸仏の出開帳を許可するとしている。

3.佐々木邦世「一山支院沿革」(『中尊寺史稿』)

4.湯浅隆「江戸の開帳における十八世紀後半の変化」(『国立歴史民俗博物館研究報告33』)