もう少しちゃんとやっとけば良かったよなあということが、誰しもいくつかあると思う。勉強とか語学とかお稽古事とか。
僕の数ある結局どれもモノにならない中途半端な才能の中で、もしかしたらこれで生計を立てることができるかもしれない、もっとちゃんとやっときゃ良かったと、かすかに思ったものが、、、ピアノ、、である。
ピアノで生計を立てると言っても、僕のピアニストとしての才能は日本代表の決定力不足以上に決定的に欠如していて、おまけに手が小さいという物理的欠陥を抱えていたので、ピアニストになれるとは露ほども思わなかった。
僕が師事していた先生は国立音大からミラノに留学して帰国後何度かリサイタルを開いた本物のピアニストだったし、本当にピアノがうまい人を何人か目にして、彼ら彼女らの持つ絶対的才能には到底追いつけなかった。
なので僕はピアニストになりたかったのでは無い。
実は、のだめカンタービレの千秋みたいに指揮者になりたかったのだ。
しかし僕はいつも思うのだけれど、ある道でプロとして特殊な才能を生かしてやっていくのに必要なことは、実は才能の有る無しではなくて、その道に賭ける一途な思いなのではないのか、と。
世の中の大半が普通の学校を出て普通の企業に勤めたり専門職となる中、人生の価値観を図るモノサシは画一化されていってしまう。
つまりは僕がまさに生きてきた世界、高学歴、一流企業、高収入、安定、家族、持ち家など。
日本社会全体がそうだとは言わないけれど、一つのステレオタイプとしてこういう換金性の高い価値観が存在することは確かだし、多くの人たちがそこへ向かって不毛な白兵戦を繰り広げている。
世の中そうした単純な価値観だけで生きている人ばかりではないことを大人になってから知ったけれど、結局のところ僕の友達もほぼほぼこの価値観世界の住人ばかりだ。
この狭隘かつ狭量な世界から飛び出して、別のステージで勝負する度胸というかモノの考え方を持っていなかった、僕の若い頃は。
まあもし僕が人生を賭けてみたところで、果たして僕が指揮者として成功したかはとても怪しい。
今頃、どこかの高校の音楽教師をやりながら吹奏楽部の指導でもしていただろうか。(音楽教師を軽んじているわけではないです。決して。)
でも、それはそれで何かに全力でトライした心地よい疲労感とか負けて潔しという感があったような気がする。
あるいは、「ああ、やっぱ勉強して一流大学行って一流企業入れば良かった」と落胆していただろうか。
まあ人生いろんなところに分岐点があって、都度選択を迫られるわけで、何かを選択するということは何かを選択しないということであり、そういう意味では人生はある時期から喪失の連続であるような気がする。
その喪失感を深刻に抱え込みすぎれば人生は後ろ向きになるし、選択したものに全力を傾けて自分を納得させる以外に道は無いのか?
などという焼け付くような焦燥感を、ショパンの『雨だれの前奏曲』を弾きながら癒すわけです。
ショパンは温かみのある励ましなどくれはしないけれど。