今年の2月にUPした内容ですが再度UPします。


「キリストのヨーガ」M・マクドナルド・ベイン著

第2章より 一部抜粋


ベイン氏とリンポチェ大師の会話

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~前略~

「自我を知るとは、目覚めているときと、いわゆる寝ている時との意識的、および無意識の行動である心のあらゆる中身を知ることです。

先生はそれが別に難しいことではないことをお示し下さいましたが、わたくしにとっては、それが邪魔する場合が時々あります」


「それは君が何か結果を求めているからだよ」


中略


「どういうことになるか君には予測がつかないだろうが、ひとつ今、実験してみようじゃないか。

そうすれば、君はいつも何かしら新しいものを発見するだろう。


さて、新しいものは記憶より生ずることは出来ない。そうだろう?

一方、記憶というものは新しいものではないね。

ところで、わたしが話を進めるに従って、君はわたしと一緒に瞑想するがよい。

そうすれば、君は一歩一歩わたしと同じことをするようになるだろう。


われわれは『明日』をではなく、『生きている現在』を発見するために実験しているのだ。


「まず第一に、自我を知ることをともなわない瞑想は意味がないことを悟ることである。

自我を知ることは高級でもなければ低級でもない。

君の高級我というものはひとつの観念、それ自体時間であるところの心の産物にすぎない。

時間は『時間なきもの』を啓示することはできない。


ゆえに真の瞑想にあっては、いわゆる高我についての瞑想は何ものをも意味しない。


まことの瞑想とは、本来記憶に過ぎない思考、思念の全過程を暴くことである。

しかも、それはすぐにできることである。


真理は時間に属する事柄ではない。

真理は今の今実存しているのである。

さもなければ、それは決して存在することはできない。


記憶――想念、思考は時間の産物である。

そうじゃないかね。

自我とは何か。

明らかにそれは記憶である――高・低いずれのレベルのものであろうと、自我は依然として記憶である。


さきほども話したように、高我・低我という考えは単に思弁、すなわち心の産物なのである。

そうじゃないかね。

その中をのぞいて見るならば、そうであることが分かろう。

高我とか低我とかは、単なる想念――君がどこかで読んだことのあるもの――にすぎない。

君はそれについて思考する。

その結果、今や君はそれを真実と思い込む。

しかし、それは真実ではないのである。


「君はそれをアートマン=霊と呼ぶかもしれないが、それは依然として心の中の一観念でしかない。

それをアートマンと呼べば、高いレベルのものということになってしまうが、実は本来記憶でしかないところのものの一部なのである。


ゆえに『自我』の全過程をよく知ることが記憶、観念、想念、思念(いずれも結局は同じもの)の全過程を理解することである。


思考、想念、または記憶なくしては自我はあり得ない。

ゆえに、わたしは前の瞬間、あるいは昨日獲得した記憶だけではなく、何世紀もの記憶、すなわち『時間』の蓄積された体験をよく知らなければならない。

意識の表面にあろうと深いところにあろうと、すべてこれは記憶である。


「ところが、記憶を精密に調べるには、時間がかかる。

しかし、時間は決して真理を啓示することはできない。

なぜなら、真理に時間はなく、それは今だからである。

ゆえに時間を用いるのは無益である。

たいていの人たちは『時間なきもの』を開けて見せようとして、時間を用いる習慣がある。


しかし、その真理は彼らにとってこれまで同様、依然として遙か彼方の存在である。

さて、以上によってわれわれは想念、思考は記憶の結果であるとの理解に達した。

ゆえに記憶は即座に消してしまわなければならない」


大師のお話はつづく。


「さて、君という存在は自我、すなわち君なるものが思考、想念という形の中に自己自身を投影する一束の記憶にすぎない。

想念と自我とは別のものではない。

両者はひとつである。

このようなものが真理であり得るはずがないし、真理を啓示し得るはずもない。


われわれは心の彼方にあるもの、記憶の彼方にあるもの、時間の彼方にあるものに到着しなければならない。


ところが、記憶が働いている限りは、時間が存在し得るのみであり、時間は実在ではないのである」


わたしは、格別はっきりとした返事はしなかった。というのは、そのときわたしにとって事情が次第に明らかになりつつあったし、また、変成が起きつつあったからである。

今までに見たこともないあるものが見え出して来たのである。

今や、心が時間の、記憶の、観念の単なる産物にすぎないことを悟ったのである。


無礙・自在であるためには心が決して真理を啓示し得るものではないことを心自体が悟らなければならないことが分かった。

意識的、無意識的、高・低いずれであろうと、記憶は記憶の彼方にあるところのものを啓示することはできなかったのである。

心すなわちわたしは、決して真理を啓示することはできなかったのである。

真理について考えることをやめることによってのみ、わたしは真理を経験することができるのだった。


このことが分かったとき、心は静かになった。

それは強いられた静けさではなく、解脱から来る静けさであった。


わたしはもはや、何に成ろうとは望まなかった。

「成る」という欲望はすでに消えていた。

心が心自身を変成させて真理に成ることなど、できるはずはなかったのである。

また、心が真理を発見することもできるはずはなかったのである。

真理を開示するには、心は静かでなければならない。

そうして初めて時間に属さない静けさ、強いられない、あるいは強制されない静けさ、より来るところの静けさがあったのである。

心が饒舌(おしゃべり)をやめた時、その静けさの中に「実在するもの」「知られざるもの」が現前したのであった。

これが、創造性(creativeness)であったのだ。

わたしにはもはや、結果を求める欲望はなくなった。

すべての行動はやみ、すべての思考はやんだ。

これが最高の形態の思考だったのだ。


なぜなら、今やそこには創造性があったからである。

私の思想・想念はもはや記憶や、過去や、わたしが真実あるいは真実ではないと思っていたことの表現ではなくなった。

わたしは、物事をあるがままに見て、物事にとらわれることはもはやなくなった。

知的働きはすべてとまった。

今や、思考の結果としての思想、想念と、思考する者との別もなく、経験と経験する者との別もなかった。

今や記憶による、時間による経験はなくなった。

あるのはただ、経験しつつある状態だけであって、その中では時間はすでに消滅している。

昨日、今日、明日はすでに完全にとまってしまっていた。

時間は、心の中以外には実は存在していなかったのである。

もはや、時間の囚われとなっていない心には時間はない。

時間のないところには、初めなく終わりなく、「因」なく、そのゆえに「果」なき永遠であったのだ。

「因」なきところのものこそが実在するものなのである。

父なる神は御自身の証文を履行したまう。

ここに創造性――完全性があったのだ。


今や、わたしは真理が「即時」であることを悟った。

時間の産物である心はすでに完全にとまっていた。

一切の想念・思念が時間に属するものであること、あらゆる人間の問題は、時間の中ではなく、今の今、解決し得るものである。

なぜならば、実在には問題などありはしないからである――このことをわたしは即座に悟った。

人間だけが自分で自分の問題を造り出していたのだ。

この事実を知ることが解決への道だったのだ。


人間のあらゆる問題は記憶の、体験の、時間の結果であること、それは時間自身のレベルでは解決され得るものではないことを私は悟ることができた。

それらの問題が即時に解決するのは、記憶がやんだ時だったのだ。

そのような問題など、「時間なきもの」の中には存在しなかったのだ。

時間の中にのみそれは存在していたのだ。

しかも、時間は心の中以外には存在せず、ゆえに問題は心の中に存在していたのだ。

神が現前し、爾余のものが一切なくなった時、人間のあらゆる問題は愛と理解、すなわち神の中において氷解するのだ。


以上のことをわたしが悟った時、創造性が現前して、「すべて善し」なることをわたしは知った。

無限が唯一の実在であったのである。

わたしは単なる一個の自動人形ではなく、いたるところに存在し、初めなく従って終わりなき活発々たる(生き生きとした)創造原理だったのだ。


今やわたしは自我を知ることが何を意味するかが分かった。

自我は実在の中には存在しなかったのだ。

このことを知ったとき、実在が解放であることを知った。


ゆえに、「今」こそが唯一の時間である。

本来、明日もなく昨日もまたない――これらのものが現在を曇らせると、「今」は実現しない。

ゆえに瞑想は一心集中の手段ではないのである。

一心集中は萎縮であり、排除であり、限定である。

瞑想とは解脱、時間よりの解脱なのである。

今や、わたしは実存するのはただひとつ、すなわち久遠の今のみであることを知った。

二元も、対立も、欲望も、渇望も、過去も未来もなかったのである。

それはすべて、心に属するものであり、それが(彼と我とは別の存在だとする)分離の中で生きて来たわたしだったのだ。


父なる神とわたしとはひとつだったのだ。

キリストのヨーガこそが唯一の真のヨーガだったのだ。

今や「わたし」も「わたしのもの」も解け去って消えた。

完全なる全体が実在だったのだ。

しずくが大海となったのだ。

イエス大師が、「父とわれとは一つなり」と語りたもうた御旨が今や分明となった。

それは、一個の観念ではなく実在(リアリティ)だったのだ。

思考は決して真実なるものを創造することはできない。

なぜならば、思考はもともと時間に属するものだからである。

また、思考は「時間なきもの」を啓示することもできなかったのだ。

そうだ、そうだ、そうだったのだ。

記憶の結果である思考がやんだ時、「続くもの」が終わった時、久遠なるものは現前するのだった。


造り出されたものではないこの沈黙の中に実在があったのだ。

記憶から解放され、時間から解放されて、瞬時から瞬時に「久遠常在の今」があったのだ。


高我もなく低我もない。

それらもまた分別であり、単なる心の造り出したものであることを、今やわたしは悟った。

この「我」なるものは、たとえいかなるレベルのものであれ、単にひとつの観念でしかなかったのだ。

なぜならば、時間の観念は一個の幻影でしかなかったからだ。