複雑そうでシンプルなこと | フィリピン・アラバンのななつことば

「私には語る資格がない」

ってずっと思ってた。





だって



その時私は神戸にいなかったし、


神戸の私の家は壊れなかったし、


私の家族は死ななかったし、


私の通う小学校の児童は皆無事だったし。

 

 





そういうの、語っていいタイプの被災者じゃないって思ってた。





でも私は間違いなく被災者で、




神戸は私の住む街だし、
家の壁には多くのヒビが入ったし、

壊れたモノも沢山あった。


電気は1日で復旧したけれど、

水道もガスも止まってしまい、

それらは春まで復旧しなかった。

 



家族は死ななかったけど

公の仕事をしていた父は家にはおられず、
母は生活を守るため

普段よりも多くの仕事をすることになった。





転校する前の、
かつて同じクラスで学んだクラスメイトは

家の下敷きになってしまった。






「こんなことになるのなら、行きたがってたSMAPのコンサートに行かせてあげればよかった」



っていう彼女のお母さんのことばを新聞で目にしてしまったし。







私の目の前の風景は一変してしまったのだ。





私は間違いなく被災者だった。






そうは言っても、


ずっと悲しんでいた訳ではない。



むしろいつものように

笑って過ごしていた。


だって面白いことも

いつもみたいに

そこにあったから。




語らないからと言って
悲しんでいない訳ではない。


「もうその話やめようよ」
っていうのは

それを軽視している訳ではない。



非日常も

慣れてしまえば日常になる。


非常事態が日常になる。



非日常の中にいると

日常が遠くに感じる。


その尊さが眩しく見える。


日常は永遠には続かないし、
非日常もまた続かない。

 



ただ、静かに
流れていくだけ。



ただ
それだけのこと。


 

 


 

 


複雑そうで

シンプルなこと。