開運 スピリチュアル算命学 -26ページ目

魔が差す、魔が入る

どっちも人間である以上、完全には否定できませんなぁ。

この数年でどっちの事例も結構目にした(自分が当事者と言うわけではない)


魔が差すのは、そういう時ってあるんで、それは算命で何となく分かる。

魔が入るのは、所謂「魔性」とかそういう人。
そういう能力?を身につけるのは、相当な行きにくさを背負って、それへの対応という側面かなぁ。
宿命に天剋を複数背負って異常干支を持ってるとか。
これも、算命でなんとなくわかるか。

要は、自分の設計図と、工程表的な物を見て、その当たりの危険察知をできていると結構防げる部分もでてくるかなぁ、と。ま、分かっていてもやめられない系も多いわけだけど

瞑想

クリシュナムルティより。

瞑想において大切なことは、精神と心の質である。
肝要なことは何かを成就することでも、あるいは目指す何かになることでもなく、天真爛漫でしなやかな精神のあり方である。(中略)

瞑想は目的のための手段ではない。瞑想は手段であり同時に目的である。
経験を否定する事によって初めて、思考によっては生み出す事のできない天真なる状態が現れる。思考は決して天真たり得ない。瞑想は思考に終止符を打つことで有るが、それは瞑想者によるものではない。なぜならば、瞑想者と瞑想は不可分の全体なのである。そしてもしも瞑想がなければ、人は光と色の大いなる美の世界にいながら、それが見えない盲人のようなものである。

--引用終わり

多くの人は、「真実」とか「神」に近づく手段として瞑想を使うけれど、そもそもの概念が間違っていては、到達しようがない。

宗教の概念が真実だろうか?スピリチュアルの概念が真実だろうか?

「YES」と答える人が多いと思うけれど、私は「No」と答える。

これらの概念を否定はしてませんよ、もちろん。
むしろ学ぶべき事は多いと思ってる。

が、あくまでも人が作り上げた物。
人が作り上げた概念である以上、有限になってしまっている。
儀式や作法が作り上げられる過程で、多くの形骸化が生まれている。

人の経験も同じ。世界を見る、世界とかかわる。それを規程していることで、社会対応の定型化には結びつくけれど、人の思考を縛る。感覚さえ縛る。

そのような世界観に縛られた精神で真実にたどりつけるのだろうか。

クリシュナムルティが教団を解散したのはそういう事。
組織として活動すれば、自ずと概念に縛られる。
それでは真実には到達できる訳がない。

私が、妄想度の強い人を倦厭するのも、まったく同じ事。

それは、たぶん必要があって作り上げた世界だとは思うけれど、自分の力で乗り越えようとせず、「分かったつもり」「見たつもり」な世界を妄想で作って、世界のバランスを取るのは最も真実からは遠い行為だと思うから。

どこかで超えないといけない。

すぴりちゅあるを言い訳に使っちゃだめよん

過去生の縁、とかさ


そういう事を理由にあげるケースって、現世でのご縁を結んだ人の縁の方が強いからね。

ほとんど。

占い師の友達と盛り上がってしまった。