【Myストーリー②】父の死,そして本気で看護職になっていくまで | MYウェルビーイングな暮らしを

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私らしく,健やかで豊かな暮らしを応援する保健師です!

こんにちは,Mariaです。

 

 

ご訪問頂きありがとうございます。

 

 

初めての方は,よかったら

【Myストーリー①】貧しさゆえの猛勉強と大学合格,そして悲しみの底へ

を読んでもらえると嬉しいです♡

 

 

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1990年代

米米CLUBの「君がいるだけで」が流れる頃

楽しい盛りの大学2年11月

 

 

 

下宿屋にあった10円コイン専用の

ピンク電話に

母からの電話

 

 

「お父さんがICUに入院したんよ。

先生がすぐに娘さんを呼んでくれってー」

 

 

私は気が動転した。

大急ぎで電車に乗り,夕方地元に着いて

父の待つ病院に向かった。

 

 

ICUに入っていた父は昏睡状態

手のぬくもりを感じた。

 

 

まだ生きてる

 

 

気が動転した母に

車の運転に気をつけるよう言いながら

父を病院に残して一旦自宅に戻った。

 

 

自宅で,高校生の弟と3人で

これまでの経緯を話した。

 

 

風邪を引いたままゴルフに出かけて

帰ってきても調子が悪くて受診

 

 

喘息薬をもらって様子をみていたが

歩けなくなって,父の兄に来てもらって

担いで病院まで運んだ。

 

 

肝機能が悪く即入院になって

一般病棟が空いてないから

ICUへ

 

 

その後,多臓器不全で昏睡状態になり

医師から娘さんを呼ぶように連絡があったそう。

 

 

自宅に戻ってからも

母,私,弟は電気をつけるのも忘れるぐらい

ふさぎ込んでいた。

 

 

そして,その日の21時を過ぎた頃

ふっと何か私の中で感じた瞬間-

 

 

ルルルル-

 

 

電話が鳴った。

 

 

「すぐに病院へ来てください。

危篤状態です」

 

 

3人で急いて病院に向かい

ICUのドアを叩くも

「処置中ですから」と入れてもらえず。

 

 

ドアが空いて対面すると

すでに旅立った父が眠っていた。

 

 

享年46歳

最後の言葉は

「雑誌とポカリスエットを持ってきてくれ」

 

 

大学生と高校生を残して

旅立つ準備はできてなかっただろう。

 

 

思春期の頃

父にひどいことを言ったことを

後悔していた。

 

 

なんでもっと素直に優しく

できなかったんだろう。

 

 

初めてのバイトで父に買った靴下を

使わず大切に持っていたことも

私を苦しめていった

 

 

父は自分の体のことで

私が友達にからかわれないようにと

友達の前に出ないようにしていた。

 

 

娘思いの優しい父だったのに

どうして私はー

もう這い上がれないぐらいの気持ちだった。

 

 

父は幼い頃に怪我をしても

一度も祖母を責めることはなかった。

祖母は旅立った父の体に

すがりついて泣いていた。

 

 

父の口癖は「友達は宝」

父の友人が葬儀にたくさん

来てくれた。

 

 

父がこの世に残したものは

二人の子ども

 

 

私達にどうなって欲しかったのか

それを叶えていくことが

私が取り戻せる親孝行

 

 

そう考えられるようになって

すこしずつ苦しみから這い上がってきた。

 

 

私は取り返しがつかない後悔を

穴埋めるように

父が勧めた看護学を

必死で学んでいくようになった。

 

 

弟はその後,大学で理学療法学を学び

理学療法士になった

(現在は訪問看護ステーションを経営)

 

 

母は30代後半で未亡人となり

父の会社の残務処理など

必死で行っていた。

 

 

二人の子どもを立派に育てる

母も父に誓ったに違いない。

 

 

その後

地域で声を挙げられない

経済的に恵まれない人のために働きたいと

行政で働く保健師を目指した。

 

 

初めて海外旅行は大学3年次

1ヶ月間カリフォルニア近郊の村に

ホームステイしながらのボランティア研修

 

 

保健師活動が活発な長野県の

市町村保健師として採用が決まり

無事国家試験にも合格

 

 

担当地区は人口3000人程度で

スイカが主な産業の農村部

高血圧,高脂血症,肥満が健康課題

 

 

保健師活動として

健康ワンポイント情報の掲載

健康講話,血圧相談

健康診断などの有線放送での呼びかけ

夜間の運動教室などを実施

 

 

行政の保健師活動の面白さを感じながら

一方で,こうした活動の評価方法を

もっと学びたいという気持ちが強くなり

大学院を受験

 

 

合格通知を頂いたあと恩師から

助手をやりませんか?とのお誘い

日本学生支援機構の返還免除になれると

教員の路へ進むことに

 

 

専門分野は公衆衛生看護学

20代半ばから30歳までは

その分野の知識・能力・業績の積み上げ

学位をとることで,精一杯な毎日

 

 

父の死後

仕事にも恵まれつつも

30歳も過ぎ結婚したいものの縁がなく

慌ただしい日々の中

 

 

これまでのをすべて失う

出来事が起こる。

 

 

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【Myストーリー③】火事ですべて失って,代わりに得た大切なもの

に続きます。

 

 

最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

 

Maria