-凪-
母が海外へ旅に出てから1週間が過ぎようとしていた。
錬太郎はいつものように怠惰な仕事を終え、重い身体を引きずり屋台に立ち寄った。
道に背を向け、一杯冷酒を飲み終えゆっくりと立ち上がりまた歩き始めた。
今夜の雲は低く街を蔽い月の居場所すら分からない。
街灯の光も心なしか元気がない。
週末にしては人通りも疎らだ。
行きかう車や人々の声、ネオンや寂しげな街灯の光さえスローモーションに流れていた。
一枚の油絵の中に錬太郎が入り込んでいるかのようだった。
屋台から15分くらい歩いただろうか、フォリナーから200メートルくらい手前の路を左に折れようとた。
その時だった。
「錬兄(れんにぃ)、お久しぶりです」
背後から女性の声がした。
錬太郎は振り向き
「ん?恭子?ひまわり?か?」
暫く女性の顔を凝視した。
「おー!、ひまわりじゃないか。分らなかったよ。何年ぶりだよ。何?仕事?近所に住んでるの?」
無表情な錬太郎にしては妙にハイテンションだった。棒立ちのまま、口だけが動いている。
確かに動揺していた。動揺の意味が理解できないほど慌てていた。
すると恭子が言った。
「お母様から聞いてなかったの?私が錬兄に話があるから会いたいって言ってたこと」
と少し小首を傾げ錬太郎を見た。
「あっ、そうだった」
どうして女性こんな時冷静なのだと、廉太郎は少し嫉妬した。
「ひまわりは俺の住所と電話番号を母さんから聞いてただろう?連絡くれたら迎えに行くのに」
と冷静を装い言葉を返した。
冷静にというのは、あくまで錬太郎の中での話だ。
どう見ても小学生が先生に注意されているような、棒立ちの姿にしか見えなかった。
「お母様から、錬兄の週末の行動を聞いたの。だから三軒茶屋のフォリナーのことも私ちゃんと知ってたの」
と悪戯っぽく言った。
母さんには参る、と心の中で思った。
いったいどこまで俺のこと話したんだろう?
錬太郎は母に翻弄されるのが宿命のようである。
「せっかく会いに来てくれたんだ。一緒に飲むか?あっ、飯は?ひまわり」
と錬太郎が聞くと
「はい。もちろんお供します。そのために来たんだもん。終電前にはちゃんと間に合うように帰るから」
錬太郎の左腕をいきなり掴み、ファーリナーのある路地へと入っていった。
何故恭子が錬太郎に会いに来たのか、その理由を聞くこともしない錬太郎。
路地の一番奥にあるフォーリナー。
軋むドアを腫れ物にでも触れるように錬太郎は開けた。
「おほーっ。いらっしゃい」
とマスターが錬太郎と共に入ってきた女性を見て少しニヤリとした。
二人は店の奥の椅子に並んで腰掛けた。
「マスター!紹介するよ。恭子ちゃん。あだ名は"ひまわり"俺の幼馴染。今、店の前の路地を出たところでバッタリ?偶然?まぁ、なんでもいいや」
錬太郎が言うと
「そんな。錬兄、説明なんていらない」
と恭子が言うと、マスターはまたニヤリとしてお絞りを二人に手渡した。
「錬ちゃんはいつもの。あっ、恭子さんは何を?」
とマスターが言った。すると恭子は
「私のことはひまわりって呼んで下さい。そのほうが気兼ね無く過ごせるから。じゃーぁ~、ジョニー・ドラムの15年もの」
と彼女が言った。錬太郎はきょとんとした。
マスターが言った。
「ヒーローたちのお酒ですね。んー、あいにく今ございません」
と頭を掻いた。
「代わりにイライジャ・クレイグとエバン・ウィリアム。それぞれのシングル・バレル。お二つ、少しずつご賞味ください」
とマスターが琥珀のボトルを二つカウンターに置いた。
「えっ、マスター、いつそんなの仕入れたの?俺聞いてないよ!」
と錬太郎は子供が拗ねるように言った。
「ボトリングの前に、樽から出されたウイスキーは樽の中のチャコールなどを除くために濾過するんだ。でも、もう大分この店の空気にもなれたし、今夜のお二人の心も濾過されるような気がするから出したんだよ。人の心へと通じる道は、きっと肝臓も経由している」
マスターは微笑みながらボトルをゆっくりと丁寧に開けた。
月が幾重にも波間に映る穏やかな凪の海のように、今夜はボトルの中の琥珀色の海に凪を見るのかもしれない。
彼女は琥珀が注がれたグラスを両手で暖めながら錬太郎のグラスに静かに近づけ小声で呟いた。
「乾杯、錬兄」
ショートヘアーの横顔から見える瞳は少し潤んでいた。
錬太郎は何も聞かぬまま、恭子も何も話さぬままフォリナーの夜は更けていった。
バーボンを生んだイライジャ・クレイグ牧師は間違いなくヒーロー。
彼女はなぜこの名前を?錬太郎は恭子のヒーロー?
マスターは曲をかけ始めた。
つづく
