-記憶-
「今日、仕事帰りにいつもの居酒屋で一杯飲んでたんだ。すると俺より若い、そうだな~30代後半から40ってとこかな、サラリーマン風の男が深いため息をついてビールを舐めるように飲んでいたよ。少し項垂れてね」
と錬太郎が言った。
「で、独り言のように何かを呟いていた。聞くつもりはなかったけど、“記憶が無い!記憶が無いんだ!”という言葉だけ聞き取れたんだ。どう思う?“記憶が無いって”って呟くこと?ある?」
するとタマさんが
「私なんかいつも“あれがない、これがない”って大変なのよ。“忘れた、忘れた”の繰り返しよ。このあいだなんか孫の名前も忘れちゃってて、新しいこと記憶できないみたい。解る?お二人さん。毎日少しずつ記憶が消えていっているのかしら?身体はピンピンしているのに。フフフ」
と微笑んだ。
「それって、ダイジョウブなのかな?」
と錬太郎が言った。するとタマさんが
「記憶って消えるもの?消えていくものなんでしょう?ねぇ、マスター。私は消えても構わないわ。だってもうこれ以上記憶する必要ないもの。もう十分よ」
そう言うとまた右手の親指をたまさんが立てた。
立てた親指に皺がくっきり見えていた。
傾いた掛け時計は11時を過ぎていた。
バーボンの水割り3杯目では異次元空間に入り込むに早すぎる。
マスターが口を開いた。
「タマさんらしいね。確かに私も忘れ物はしょっちゅう。今日だって買出しの内容をメモ書きした紙をどこにしまったか忘れたから、今夜はカウンターに載せた肉じゃがだけ。あっ、サラミもね」
と袋をシュパンと開いた。
無造作に皿に盛りながら
「記憶って言葉はめったに使わない。錬ちゃんも使わないだろう」
とサラミの盛り皿を私のほうへ手で寄せた。
「うん、そうなんだ。“忘れた”なら使うよ。でも“記憶が無い”とは言わない。だから気になったんだと思う」
錬太郎は首を傾げた。
「そう、何か重い責任を伴うことに関わっているか、本当に記憶を喪失し掛けているのか、或いはストレスによる一過性のものとか?色々考えられるかもしれない」
とマスターの分析が始まった。
「オホホホホ、私は朝と昼、何を食べたかちゃんと覚えていますよ。だって、メニューのパターンが同じだもの。フフフ」
タマさんはビールをグビッと飲むと、ピンクのマフラーをはずした。
「タマさんの記憶って、どの辺までを記憶って言うの?」
と錬太郎が言うと、タマさんは立ち上がり
「トイレに行って戻ってくるまでよ。ジャンジャン。失礼♪」
と言いながら店の奥へ消えていった。
ちなみに店のトイレには“仕上げ”と書かれた紙がトイレットペーパーのホルダー上に貼ってある。
仕上げが肝心とのことらしい。
タマさんはトイレから戻ると
「話はどこまで進んでますか?私の初恋?な~んちゃって♪」
と言いながら、ピンクのマフラーを巻きなおした。
「タマさん、寒いの?」
と錬太郎が言うと
「あら、可愛いとこあるのね~錬ちゃん♪」
タマさんは少し酔っていた。
タマさんはここからがパワー全快、ギアチェンジと言いたいところだが、本当はスコーンと眠りに落ちる一歩手前なのだ。
少しは歳を考えて!などと言ったものなら大変なことになる。
錬太郎は何も言わずタマさんの様子を微笑みながら眺め、グラスを口へ運んだ。
「“記憶がない”と言う言葉は、本来ごく当たり前のことかもしれない。記憶とはautomaticな生物。とても自動的に立ち上がり、意志とは無関係な生き物。これほど厄介な生き物は無いだろう」
錬太郎が言うと、マスターが
「意志が呼び戻す記憶には嘘があるよ。本当の記憶は時と場所を選ばない。記憶の持ち主にさえ、keywordを知らせない。記憶の中から幸せなものだけ取り出す」
とマスターが捨て台詞のように静かに言った。
「あんた達、なかなか鋭いね。一つ言っとくけど、幸せはね感情を表す言葉なのよ。感情は理解できないものだし、とても忘れやすくて残るのは誤った記憶だけ。確かに記憶は厄介なの。私にも厄介な記憶があるわよ。それでも生きてるけどね」
タマさんは意味ありげに言った。
フォリナーの夜は、ゆっくりと更けていった。
つづく