ー死とは忘れること?ー
「タマさんも錬ちゃんも、忘れたって言っても毎日の生活に困るほどのことがないから今夜もこうやって夜更かしして飲んでいるのよ」
とマスターが言いった。すると錬太郎がタマさんの顔を見て
「そうだなー、タマさん」
と言いグラスを少し高く持ち上げた。
「私は錬ちゃんやマスターと違うのよ!君たちより長い人生という自分の歴史があるから身体が覚えているの。忘れ物しても大丈夫。孫の名前だって写真を見てすぐに思い出すの」
するとマスターが
「きっと!何かきっかけがあれば、その男性の記憶、戻るかもしれない」
すると錬太郎が
「でも、そのきっかけになるkeywordが何か解らないと」
と言うとタマさんが
「いいのよ。記憶って戻らなきゃだめなの?消えたままじゃいけないの?消え去った記憶だってあるじゃない?私は消えて欲しい記憶なら山ほどあるわ」
と左の薬指の輝くリングを眺めた。
錬太郎は、タマさんのあのリングの主は誰か?かつて詮索したこともあった。だが、所詮他人の人生。タマさんが話しださない限り聞くのはよそうと思った。
錬太郎は四杯目のバーボンを口に含み始めた。
「何かの本で読んだことがある。人間は複製されるたびに染色体、つまりDNAが少しずつ失われるようなことが。だから外傷を修復することを忘れるらしい」
マスターがグラスを洗いながら言った。
すると錬太郎が
「タマさんはすこぶる元気なのが不思議だよ。外傷を修復する力が衰えているはずなのに」
するとタマさんが
「失礼よ♪!」
と高笑いしながら言った。
マスターは何かを悟ったように話し始めた。
「タマさんには負けます。ただ言えることは、人って記憶を引き出して、それを基に行動しているようなものじゃないかな?子供のころから学習して記憶する。それを必要なときに引き出しから出し、また積み重ねて生きてきた。きっと、その男性はパニック状態に近かったと思う。何か積み重ねていたものが崩れ始めていたのかもしれない。ただ、その男性のいつもの行動パターンがビールを飲ませていたんじゃないかな。その時、自分の居場所とそこにいる理由が繋がらない、そう、繋がらないから、だから必死になって繋げようとしていた。その時の言葉が“記憶が無い”だった?」
マスターの整然とした語りに二人が茶々を入れるように知りもしない男性の話がしばらく続いた。
飲み屋でつぶやいていた“記憶が無い”という男性の話題がここまで深く?続くとは。
錬太郎はマスターのコーディネーターとしての力に感服していた。
ふと横を見るとタマさんは異次元の空間へ既に旅立つ準備をしていた。
マフラーを枕替わりに品良く瞼を閉じようとしていた。
マスターは
「今日は冷えていたから、身体に堪えたんじゃない?もう70歳を過ぎるしね。起きているときは決して、口が裂けても言えないけとで」
と小声で錬太郎に囁いた。
「きごえでるにゃよ(注記:聞こえてるわよ)~」
タマさんのラストオーダーの曲が静かに流れはじめ、それぞれが何かに引き寄せられるように人生という記憶の道を過去へと辿り始めていた。
つづく
