夢の手前
挨拶もなく、疾風のタマは錬太郎の一つ隣の椅子に腰掛けマスターに向かい右手の親指を立てた。
いつもの挨拶なのだが、70歳を過ぎた女性とは思えない効率のよい動きである。
ぐうたら錬太郎の動きとは程遠い。
錬太郎は50歳になるが自分では若いつもりでいる。
ある意味ナルシストかもしれない。
錬太郎が
「相変わらず俊敏だね、タマさん」
と低い声でゆっくり言った。
タマさんはサングラスをはずしながら
「年寄りだと思ってからかわないでくださいね」
と風体とはかけ離れた品のあるしなやかな言葉を返した。
口元を緩め、マスターが言った。
「いつも二人が揃うと夜が長いんだよな~」
と言いながらタマさんにビールを注いだ。
Fly With The Windが狭い空間に流れていた。
錬太郎は二杯目のバーボンを口にした。
「今夜の雲は低くとても速く流れている。雲の隙間から見え隠れする月がかくれんぼしているみたいだ。でも、居場所は解るものだ」
と言うと、タマさんが
「また始まりましたね、天性のロマンチストの語りが」
とからかった。
そして錬太郎が言った。
「そう、僕はロマンチスト。今夜も隠れる月を追いかけ、この店にたどり着いたのさ」
グラスを右手で軽く持ち上げ、マスターを見た。
マスターが言った。
「タマさんは?丘を駆け抜けてきたんですね」
とマスターが言うと
「そう。私は疾風。マウンテンバイクに跨り街を駆け抜け、風に乗ってこの店にたどり着いたのよ」
タマさんは歯切れよく答えた。
この三人の会話を聞いて可笑しいと思うかどうかは人それぞれの感性による。
まぁ、一般的な挨拶代わりの会話とは言えないが洒落気たっぷりである。
「夢の手前の現実をお二人は生きているような気がしますが?」
マスターは二人に言葉を投げた。
錬太郎はバーボンが揺れるグラスから口を離し
「僕は毎日現実に翻弄されながら生きているようなものです。途方もない喪失感に身体ごとの見込まれてしまう」
奥の棚を見つめながら言った。
「呑み込まれて癒されているんでしょ、錬ちゃんは。違う?」
とタマさんは錬太郎を見ながらビールを喉に流し込んだ。
確かにそうかもしれないと錬太郎は思った。
「社会は現実に解決できない自分の抱えている矛盾を少なくとも思考の中のみでは解決に導こうとしているようですが、お二人とも矛盾すら呑みこんでいる人生の達人のようですね」
少しからかうように棚へくるりと身体の向きを変え、二人に背を向けたまま次の曲を掛けた。
ヘルマンヘッセ、スピッツのロビンソン、二コール・キッドマン、錬太郎の頭の中を漂い始めていた。
「ありふれた魔法」がこの店にある。
そう思えた。
夜は、巡り逢う時間たちにグラスを与え、琥珀色の夢の手前を漂わせながら三人を包み込んでいた。
今夜の月は少し目隠しをして本当に隠れている方がよさそうである。
つづく
