「I want to find happiness。。。2」 | 我ここに在りてここに無し

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青きBOUGAの果て

ひとりごとのように

詩と小説を書き綴ります。

何か心に響くものがあれば

それだけで。





2.正しい答え



 "幸せ"を人生最大の目的とするかどうかは個人の自由だ。


 そこに正しい答えも望めない。


 個人によって"幸せ"の尺度は異なるから。






$のんびりと





 ある意味"幸せ"という言葉は、何かを断念することなく突き進むという意味を含んでいるようにも思う。


 それが「他人」や「家族」の"幸せ"を壊すこともある。



 その覚悟も無く、安易に"幸せ"をもてあそぶことは全てを"不幸"に突き落す。


 愛を知らずに生きてきた人間は、簡単に「他人」を突き落す言葉を吐く。


 意識することなく、そして何気なく言葉を吐く。


 そして自ら首を傾げ"なぜ"と自問自答し深く沈み"幸せ"が掴めないと嘆く。



 その先の人生は「幸福」ではなく「降伏」となるのか。

 

 
 
$のんびりと

 


 ただ褒めてもらいたくて、笑顔を無くしてまで頑張って心を壊し涙する。



 どれほど笑顔を望んでも、心を壊し涙しても自分の"動機"は届かないという現実を前にしても同じ"動機"をぶつけていく。


 nonsenseだと思う。



 自らの叫びに押しつぶされそうになるほど、"意地"という壁を高くしていく。



 "動機"を投げれば投げるほど壁は高くなり心は貝となる。



 もっとも安全で安定した環境の中で"動機"を投げても、一番理解して欲しい"動機"は届かないと知った時、心は涙を枯らし"意地"を完璧にしてく。



 いったい、何のために?そこまで"意地"になるのか理解できない自分がいても、他人の言葉を受け入れることができないほど頑なになっていく。


 周囲によって創られた"理想"という演技が、自分にそぐわないと分っているのに、なぜそこまで"意地"を貫くのかと思う。






$のんびりと





 耐えるだけが心の力ではない。



 "踏み出す"という"勇気"も心の力なはず。




 しかし、後者を選択することは多くのリスクを孕んでいる。




 いや、それをリスクと考えるからどうかは個人により程度が異なるが、多くはそのリスクを恐れ"勇気"を捨て"安全"で"安定"した環境を選び「これでいいんだ」になる。



 では、いったい何のために"意地"を張り続け高く築き上げていくのか。



 壁は高くるほど「降伏」を意味する。



 「幸福」という"幸せ"は、掴めぬまま人生を終える。




 選択するのは自分であり、決定し次に"どう動く"かが自らの心の"力"に託される。



 そこには"動機"が潜んでいる。



 どうやって引っ張り出すかと試行錯誤しながら、正解の無い答えを自ら創造することになる。



 人間は"うそ"という常備薬を持ち、"真実"という劇薬を懐(ふところ)に潜ませ生きている。



 最初に自分を騙し生きてきた人間にとって"うそ"は慣れている。


 誰でも初めに自分を"騙す"から。


 しかし"真実"は劇薬に匹敵するほど、生死の意味まで問わせ追い詰める。


 そうして深く沈み続ける。

 
 なんともいい加減で不埒(ふらち)な人間。


 そんな人間が"動機"を語ることは、"動機"の意味を"幸せ"に転化することすら許されない。



 それでも"幸せ"になりたいと叫ぶ。




$のんびりと







そんな僕がいる。







To be continued