女将は少し落ち着きを取り戻したようだったが、相変わらず耳たぶが薄っすらと赤みをおび火照っているように見えた。彰は無関心を装い、父に話し掛けた。
「おやじ、お酒は?チリで何飲んでるの?」
「Vina Valdivieso。。。バルディビエソ カベルネ・ソーヴィニヨン レセルバ。。。長い名前だろう・・・ワインだよ」
「へーっ」
「カシスや赤い果実系のアロマだ。少しメンソールとスパイシーな香りがあるけど」
「へーっ。それって日本でも飲めるの?」
「あぁ、売っているかもな」
「今度、送ってくれよ」
「気が向いたらな」
「これだもんな。。。あーっ。まぁ、いいや。それで、おやじ、仕事の方は?」
「今は、ハンバーストーンとサンタ・ラウラの硝石工場群の保存を手伝ってる」
「ハンバーガー?サンタクロース?何それ?」
「ああ。チリの他にペルーとかボリビアから流れて来た労働者が築いた企業城下町だよ」
「で?その街がどうかしたの?」
「ハンバーストーンとサンタ・ラウラは、南米チリ北部のタラパカ地方、アタカマ砂漠にある町イキケ(Iquique)の東方にある。遺跡は、建物の構造が弱くてな最近の地震の衝撃で2005年の世界遺産登録の際に“危機にさらされている世界遺産”のリストにも入ったんだ」
「それは分かったけど。そんなに大切な場所なの?じゃー、街の保存?」
「いや、廃墟さ」
「廃墟?そんな街を?」
「チリのほかの硝石工場群には、チャカブコ(Chacabuco)、マリア・エレナ、ペドロ・デ・バルディビア、プエルマ、アグアス・サンタスなど色々あるけど、チャカブコはピノチェト政権下で強制収容所として使われたという特殊なケースなんだ。今も未撤去の地雷が周囲に埋設されたままだよ」
「そんな危険な場所を保存しなくちゃならないの?」
「まぁ、聞けよ。。。」
父は、ビールを一口飲んだ。
「グイジェルモ・ヴェンデル硝酸塩抽出会社(The Nitrate Extraction Company Guillermo Wendell)てぇのがあってな、1872年当時ペルー領だったサンタ・ラウラに硝石工場群を建てたのさ。同じ年にジェームズ・トマス・ハンバーストーン(James Thomas Humberstone)は、ペルー硝酸塩会社(Peru Nitrate Company)を設立して、ラ・パルマに工場群を建てた。それぞれの工場一帯には、イギリス様式の建造物群が建てられとても賑やかな町になっていたんだ。そこで産出された硝石は、化学肥料の原料として南北アメリカ大陸やヨーロッパ大陸の土壌を肥沃にすることにも貢献したんだ」
「それで?世界遺産?」
「ラ・パルマがその地域最大の硝石生産拠点となっていたのに対し、サンタ・ラウラの生産は低かったんだ。それで、1902年にはサンタ・ラウラはタマルガル硝酸塩会社(Tamarugal Nitrate Company)の手に渡ったんだ。1913年には一時操業停止に追い込まれたが、シャンクス式抽出法(Shanks extraction process)とかいうのが導入されて生産性が向上すると再開した。でも、世界恐慌の時期にあたる1929年に挫折し、1934年にコサタン社(COSATAN, Compañía Salitrera de Tarapacá y Antofagasta)が買い取った。コサタンは元の設立者の名を記念しラ・パルマを「サンティアゴ・ハンバーストーン事業所」(Oficina Santiago Humberstone)と名前を変え、1940年には最も成功している硝石工場となったんだ。しかし、その後衰退し1958年に姿を消した。ゴーストタウンとなった2つの町は、1970年に国定史跡となって観光客に公開され2005年に世界遺産に登録されたってことなんだが。。。」
「おやじの本来目指す古代考古学とは少し道が反れてるんじゃないか?」
「初めは、確かに気持ちが腐りかけたよ。でもな、人が使い果たし用無しとなった街を修復しながら思ったよ」
「何を?」
「人間って勝手なもんだと。資源を食いつぶし、不要となれば投げ捨てる。投げ棄てた街など見向きもせず、また新しい街を造る。確かに自然災害によって破壊された街もあるさ。しかし、それにしてもいつたい人間はいくつ街を作って壊せば気が済むのかとね。俺は、今、地球に罪滅ぼしをしてるのかと思つてる。もう、未来は見えたから」
「未来が見えたって?おやじには未来が分かるのか?」
「お前、世界遺産って言うけど地球の大自然なら分かるが、なぜ古代文明や歴史的建物まで世界遺産なんだ?俺には理解できないよ」
「それは極端な考えじゃないかなぁ。歴史的な価値があるんだろう。人類が歩んできた過去の歴史が刻まれている。それから学ぶことがあるからじゃないのか?」
「お前、人類がどれほどのものなんだ?歴史的建造物の殆どは、そこに生活している個々の人間が、大それた建物を建てたいと思うか?平穏に生活している一人の人間が奈良の大仏を建てたいと思うか?全ては統治する者達が自らの権力を誇示するため、或いは宗教的な思惑が絡んでいる。そういうものが殆どだ。その建設にいったいどれだけの人間が犠牲になって死んでいったと思う?京都の加茂川に同じ時代どれだけの死体が流れていたと思う?お前考えたことあるか。それを考えて遺産と呼ばれるものを眺め感じ取るならまだ救われるが、単に綺麗だとかすごいとか、そんな感嘆の言葉で済ませられるものじゃないんだ」
「じゃ、おやじにとって過去ってなんだよ。歴史っていったい何なんだ?俺たち家族に振り向きもせずのめりこんで来た道っていったい何なんだよ!未来が分ったって言うけど、どう分ったんだ?」
父は彰を見据えた。とても70歳を過ぎた男の眼光とは思えないほどの鋭く深みのある眼差しを彰に向けた。
「お前、過去とは現代社会に生きる人間だけが言う言葉だ。過去や未来なんて地球にはなんの関係も無いことさ。現に俺たち人類が過去を今も見ているじゃないか。夜空を見ればすぐに分かるだろう。過去も未来も無い。あるのは現在なのさ。あるのは“今”だけなんだ。今が未来なのさ」
父の言葉に彰は、自分の生きてきた過去も葵との未来も消し去られてしまうかのような感じを覚えた。
「宇宙から見れば、我々人類は止まっているだけ。流れていると思い過去や未来という我々の時間など止まっているようなものかもしれない。私は今も妻の姿がそのまま心にある。出会った頃のままさぁ」
父の目が潤んでいた。
つづく
付記:私にとって。。。この曲は。。。とても温かく心潤すように響きます。。。好きな曲です。。。
心の抑揚は曲の印象を変えることがありますが。。。
この曲だけは。。。変わらない。。。そんな気がします^^
余談でした。。。