40. | 我ここに在りてここに無し

我ここに在りてここに無し

青きBOUGAの果て

ひとりごとのように

詩と小説を書き綴ります。

何か心に響くものがあれば

それだけで。



 女性と二人だけで食事をする。しかも心から好意を抱く女性と、こんな穏やかな時間を過ごすなど何年振りだろう。

妻がマンションに引越ししてからは勿論、それ以前から既に家庭内では別居状態。食事もそれぞれ別々。会話すら必要最小限に留め、皆無に近い状態だった。


それぞれの行動に干渉することも無くなっていた。反省を繰り返し幾度か関係修復のための行動に出るが徒労に終わる。仕事バカに近い生活に妻を引きずりこんでいたことは詫びても詫びきれるものではないと思う。

 どれだけ彼女に犠牲を強いたか、それを考えれば妻の苦しみは想像するに余りある。

 自分が学んできた優しさや思いやりなど、なんの助けにもならなかった。仕方がないと彰は常に自戒の念を抱きながら、夫婦生活を続けていた。

 そして、ある日妻は自分の人生を自立したものにしたいと言い、マンションへと引越し別居が始まった。

 何がここまで我々夫婦の心に溝を作ってしまったのか。

 幾度か互いの気持ちをさらけ出し話し合った。しかし、スパイラルのごとく限りない螺旋を辿るに過ぎなかった。

 別に憎み合うわけでもなく、経済的に妻が自立できるには時間が掛かるだろうし、現在の夫婦形態が互いの自由度に調度合致しているのかもしれない。

 夫婦とは、演技し続けるものなのだろうか。演技できることは人間の証に違いない。しかし、その行動を説明しろと言われても、演技では説明することも、その真意を伺い知ることも出来ない。

 素直な心でい続けることの、なんと難しいことか。


 この社会に逃げ場などどこにもない。

 せめて家庭に逃げ込むという言葉もあるが、そこにも逃げ場など無くなっていた。

 しかし、逃げ場の無いことが彰に安心感を与えてくれていたのも事実だった。

 それは、人が限られた人間関係の中でしか生きられないという現実であり、その中での人間関係が自分の生きている証に他ならないからだ。

 この狭い頭蓋骨に収められた脳で宇宙の果てまでも、深い海の底までも考えることができる。

 まさに“自分”“私”という狭い空間に居ながら未知の世界まで思考を廻らすことが出来るというパラドクスに辿り着く。

 それほどまでに考えることを諦めない人間であるはずなのに、なぜ身近な人間関係を修復で出来ないのだろう。

 逃げ場の無い脳で逃げ場の無い社会を生きる人間。だからこそ、より自由になることを望み考えること諦めない。ただ、一番近い関係にある人間が一番遠く感じたとき、自由すら見失うものだということを彰は感じた。

 人を嫌いになる人ほど優しい人間だという人もあるが、嫌われる人間が自分だとしたら、それこそ情けない話である。


 彰が32歳の時、彼には深く愛する女性が一人いた。紫陽花の咲き始めるこの季節に知り合った女性。彼女はもうこの世にはいない。

 その女性の死に直面したときから、彰は“生きる”ということについて深く考え始めるようになっていた。小説の道に進み始める切掛けも、そこにあったのだろう。

 彼の書斎デスクの上には額紫陽花の鉢がいつも置かれている。その花の意味を妻に尋ねられたことが一度だけあった。

 しかし、夫婦とはいえ話すことのできないこともある。また、そうでなければ自分を保つことが難しいだろう。それは、一人の人間として生きている証に他ならないからだ。

 葵が食べ終わるのを待って、二人は店を出た。夜の11時を少し過ぎていた。




「美味しかった。ご馳走様でした。。。彰さん♪」

「家庭料理みたいなもんだから、特別な料理じゃないけどホッとするからこの店に来るんだ」





 葵は彰より前を歩いて店の駐車場に止めてある彰のクルマの前で立ち止まり振り返った。




「私、今の彰さんの家庭がどのような状態にあるか詳しく知るつもりもありません。だから、私のことも聞かないで下さいね。ただ、二人でいるこの時だけを心の隙間にしないで。現実から逃げるわけじゃない。。。彰さんを好きな私がここにいる。それだけなんです。私の心も身体も全てがそう言っている。だから、だから。。。私を見てください。もっと私だけを。。。この時だけは、欠けた愛は欲しくないんです」




 葵の心は、もうどこにも戻る場所など無かった。





「君はいつも、僕の言いたいことを先に話すんだね。君に言ったよ。初めてのデートの時に。いまさら君に初めて会った場所に時を戻せるはずがないと」


「。。。」


「僕の心も手遅れなんだ。。。もう、君だけが僕の全てだから。。。」





 助手席のドアを開け葵をクルマに乗せた。彰がドアを閉め運転席に腰を下ろしドアを閉めた。



 国道を通る車のライトに時折照らされる二人。どちらともなく頬を寄せ重なり合う顔。シルエットは一つになっていた。




 彰は身体を離し、葵は彰の肩に持たれ掛かったまま二人は正面を見た。




「さぁ。帰ろう」



「はい」




 クルマは滑り出した。これから続くと信じた二人の道を。。。


つづく






互いの心の道しるべ 



辿る術など知らないのに



誰も探し迷う



雲の波に浮かぶ



月の船に



今夜も二人



漂い続ける



辿る道しるべは



とうに消えているのに





つらいよね



こんなにそばにいて



何も伝えられない



海に沈む月なら



それも癒してくれるけど



白い布には沈めない



触れることすら



許されぬ君



ただ心素直に



涙を流そう



それだけが



今 唯一の



心の道しるべ