タバコに火を点け朝靄の立ち込める窓の外の霞む景色をまた眺め、窓ガラスに“おやじ”と右手の人差し指で書いた。この“おやじ”と言う言葉には、彼自身親しみを感じているらしい。この言葉しか書かないのだ。不思議な習慣だ。
デスクの上には額紫陽花が彰を静かに見ている。
久しぶりにJazzを掛けた。椅子に座り続けると腰が辛くなる。疲れると、ソファーにもたれ掛かり脚を乗せ横たわる。花の都と言えばパリ。仕事が嵩むと、森の空気は一変に霧に包まれる。この部屋は差し詰めロンドンとなる。霧の都ロンドン。ロンドンを舞台にした映画や小説で霧は定番だ。ロンドンに霧が多いのには海流の影響があると聞いている。南西からのメキシコ湾海流と北東からの北極海流がドーバー海峡でぶつかる。暖流と寒流がぶつかれば湿った空気は冷やされ霧が生じる。秋から冬に掛けて霧が多くでるらしい。それに加え冬場の暖房用の石炭の煤煙が空気中で結びつき霧を一層濃いものにしているらしい。今は「ミルクを流したような霧」はないだろう。
彰のタバコの煙は煤煙といったところだ。この部屋に花は不釣合いだ。無精な彰だが、この額紫陽花の鉢だけは日に当て水をやり、コマ目に手を掛ける。
昨夜の酒が少し残る頭で、まだパソコンに向かいキーボードに指先を打ち付け始めた。眠気覚まし?酔い覚まし?手をたまに止めては濃い目のコーヒーを胃袋に流し込み仕事に取り駆る。最近デスクの上に積み重なる書籍が増えているのに彼は気づいていないようだが、どうも哲学に関するものが多くなりデスクスペースの大半を占拠している。40歳を過ぎた頃から哲学書に走る傾向があったが、本人は何も意識したことはなかった。
朝は結局コーヒーのみで済ませ、昼頃に一階にあるダイニングに降り新聞をテーブルに広げ、昨日の茄子の味噌汁を温め、昆布の佃煮と乱暴にテーブルに置き、ご飯をレンジで温めた。生卵を小鉢に入れ腰を椅子に落ち着かせた。よほど気が向かない限りテレビは見ない。なぜと言われても画像は彼にとってあまり意味がないのだ。
もともと、彼はビジュアル化されたものに興味を抱くより、むしろ古く朽ち果てたものを見て、かつて輝いていたであろう風景、その色や形、そこに住んでいた人の感情や息遣いに想いを馳せることの方が心地よかった。やはり、世間の中年男性とは少し距離を置いているかもしれない。
昼食を済ませ、彼は二階の自室へ戻ろうとした。その時、ダイニングにある電話が頭を叩くように鳴り響いた。子機を掴み彰は電話に出た。
「はい、松野です」
「おはようございます。あっ、もうお昼ですから“こんにちは”ですね。昨夜は本当に失礼しました」
彰は声の主が誰であるかは直ぐに解かったが、冷静を装いありふれた言葉で返した。
「え、どちらさまですか」
「池上です。昨夜失態をさらした池上です。女将さんから電話番号を聞きました」
女将は、いらんことをして。と言葉とは裏腹に彰は少し嬉しさを感じていた。若い女性から電話が来ることなどめったにないことだ。まぁ、それとは違う理由もあるのかもしれないが感情を押さえながら答えた。
「あぁ、池上さん。膝を擦りむいていたようですが大丈夫でしたか?お仕事は?」
「ええ、休憩時間で今外に出ています。突然で申し訳ありませんが、ご迷惑でなければ昨夜の失態で松野さんにご迷惑をお掛けしましたので、その埋め合わせをさせて頂けますか?」
「女将と三人で、ですか?」
彰は自分でもなんてバカなことを言ったのだろうと思った。親父の心は
チクチクと痛み始めた。
「えっ?えー、それが女将さんは店を休むわけにはいかないとおっしゃって。確かにそうですよね。女将さんのお店でということに」
「そっ、そうですか。埋め合わせなんて、そんな。誰でもあることですよ。女将の店なら毎日のように夕飯を食べに通っていますから、池上さんの都合のよい日においで下されば」
「そうおっしゃって頂けると気が楽です」
「あっ、でも、もう一人煩い男がいつも来るので。傍にいても気にしないでください」
「えっ?あぁ、私はかまいません。とにかくお二人にお礼を言う機会を頂ければそれで。では、後日、夕刻にまた伺います。お忙しいところ突然電話して申し訳ありませんでした。失礼致します」
「いいえ、では、また」
子機を静かに置いた彰。
つづく