6. | 我ここに在りてここに無し

我ここに在りてここに無し

青きBOUGAの果て

ひとりごとのように

詩と小説を書き綴ります。

何か心に響くものがあれば

それだけで。



 その夜、女将は自分のマンションに彼女を一晩泊めることになった。両膝を擦りむいたらしくストッキングに少し血がにじんでいた。彰はひとまず女将に彼女を任せ帰宅することにした。

帰り道、街灯の下で泥酔した男がしゃがみ込んでいた。その前を通り過ぎようとし時、男が独何か呂律の回らない口元から何かを呟いていた。誰かの名前だろうか?なにもそこまで酔わなくてもと思ったが、彼をそこまで酔わせる理由があるのだろう。今夜の彰は誰も非難する気になれなかった。自分も荒れた時期があったことを思い出した。

 確かに生活が軌道に乗るまでには、彰も厳しい時を過ごした。世間から自分だけが取り残されたような疎外感。誰も自分の存在など気にする人などいない。どこでいつ自分が消えても誰にも気づかれない。そう思った時もあったが、死ななかった。

 中途半端な人間だなと自分を卑下し、ただ漠然と過ごしていた。そんな時、彰は自動販売機の傍に咲く額紫陽花を見た。夜の自動販売機の傍は明るい。無機質な自販機の傍でじっと咲いている額紫陽花。

 誰に褒められるでもなく、ひっそりと雨に濡れながらもとても綺麗に咲いていた。こんなにも見る者の心を惹きつける花、その力強さがとても新鮮に感じられた。

 その時の彼の心がそう感じさせたのかもしれない。

 誰が自分の存在を認めるかを気にすることより、自分自身がどう生きたいかのか、風見鶏のように周りの風の向きを気にするばかりに自分を見失う。あるがまま自分の姿を感じてくれる人がいるはずだと思った。この花のように。そして、彼は自分のスタイルを自然に表現するようになり物書きとして、曲がりなりにも自立した道を切り開くことができたのだった。

 今夜の彼女を見て、とても微笑ましく思えた。心から、頑張れとエールを送っていた。彰は自宅に着くと自室にある額紫陽花の鉢に目をやった。この花が咲く季節が訪れようとしていた。いつもこの季節がくると彼は思い出す出来事がある。

 雨の降る自販機の前。あの時のことは、おそらく彰の人生を変えるほどの出来事であったことは確かだった。

 忘れることのできない、思い出としてはあまりにも。。。

 窓を少し空かし、そとの風を入れた。デスクに向かい原稿を書き始める。スーッと彼の鼻先を春の香りが通り過ぎた。キーボードを打つ手が止まった。淀んだ部屋の空気が森の中にいるかのように感じられた。彰は、またキーボードをカタカタと叩き始めていた。

 また、繰り返す、あの時が始まるとも知らずに。



つづく