夕方は、出版社の担当者と仕事の打ち合わせだった。数ヶ月に一度は、何だかんだと理由を付け飲みに引っ張り出される。飲みながら、豊富な話題?いやくだらない話題で深夜まで飲むのが常だった。その日は『香水は効果があるのか?』について男だけの偏った討論が続いていた。
編集社の矢野と小俣の二人は、男と女の話題に長けていた。彰はどちらかというと傍観している方なのだが、二人はそんな彰を話題に引きずり込み、からかいながら楽しんでいる。彰は酒の肴だった。
「松野さん、知ってますか?最近イギリスでフェロモンと同じような効果のある香水ができたみたいですよ」
矢野は白髪混じりの長い髪を櫛で梳かすこともせず、山姥(見たことはないが)の様な容姿で彰にビールを注いだ。
「だけど、人間って奴はそう簡単にはいかないだろう。実験をするにしたって人それぞれ違うんじゃないのか?好みってもんがあるだろう」
彰は矢野の言葉に突っ込んだ。
「臭いの分からない人はどうするんだ?風邪を引いて鼻が詰まっていたら効果ないだろう?」
「でも、嗅覚の無い人間にも臭いが分かるって、何かの本で読んだことがありますよ」
少し小柄で角刈りの小俣は、客観的な情報を元にしか意見を述べない。
「有名な生理学者がある男性を解剖してみたら、嗅脳の部分が欠けていたらしいです。でも、その人は生前、バラの花束に顔を埋め“いい匂いだ”って言ったみたいですよ」
「じゃ、鼻からの神経からの情報を脳が受け取らなくても臭いが分かるってことかい?結局は、そんなフェロモンを刺激するようなものは無いんじゃないのか?」
矢野は少しがっかりした表情を見せた。まぁ、大抵ろくでもないことを考えている。その落胆振りを見て彰は笑った。
「それは、いい匂いだということを周囲の反応から感じ、経験の中で教え込まれた。そんなところかもしれない。矢野ちゃんが期待しているのは男と女を結び付けるための要素としてだろう?そんなに影響ないかもよ」
彰はそっけなく言うと、小俣も頷いた。
「クジラは嗅脳が無いようですよ。匂いがまったくわからない動物はクジラだけみたいです。無くてもいいんでしょうね」
小俣は冷たく矢野が期待する香水を無力なものにしてしまった。男の会話など幼い子供たちの会話よりも、露骨で下品になり易いようだが今夜は幾分品行が保たれている。
「ようは、相手のしていることを見て感じるんだよ。ヒビッとさぁ」
彰の抽象的な表現に小俣は首を傾げたが矢野は頷いた。
「そう、そのヒビッとくるようにね♪」
「矢野さんのヒビッとは、少し違うヒビッとでしょ」
酒も手伝ってか小俣の突っ込みが鋭くなってきた。こんな話題たから長く続くのかもしりない。結局はなんの打ち合わせなのか分らないまま終わる。
ホームズに出てくる霧のロンドンの“ミルクを流したような霧”に包まれている三人だった。
皆と寿司屋で解散し、帰りしな自販機の前に立ち止まった。
一見、無機質な灯りに思えるかもしれないが、彰にとっては温かく感じられる。最近自販機の前で立ち止まることも無かった。
遠い昔のことのように思い出される額紫陽花との会話。彰の頬に雨粒がポツリと。
彰の背中に近づくヒールの音。雨音に包まれながら静に響いていた。
つづく