8月13日
「とても、外来治療では対応できないねぇ。もう一回入院しようか」
外科部長のN先生の言葉でまたもや「再入院」となりました。
会社へ再入院となったことを説明し、家族へは一旦帰宅して再入院の用意を持って午後に病院へ戻らないとならないことを電話で伝えました。
「こうなったら、とことん直すしかない!」と、覚悟を決めてもやはり普通の人が考えるように入院はツライものです。
その日の午後、病院へ
つい2週間ほど前に退院していったのに、またもや入院してきて
顔を覚えている看護士さんにも「また、舞い戻ってきました!(苦)」と苦笑いするしかない状態です。
担当のY先生も、「やはり腫れが再発したんですね。とりあえず”造影検査”を午後にできるように手配していますので、それで原発口を探すようにしましょう」とのこと。
※原発口:今回の「肛門周囲膿瘍」の原因となった肛門内部の穴(一次口)ここに便が入り込み、皮膚の穴(二次口)へ膿が出て行きます。
奇しくも、舞い戻ってきた病室は前回と同じ「311号室」です。
ただ、ベッドは入口から入って手前左になりました。
看護士さんから呼ばれて、「1階の放射線検査室へ一緒に行きましょうか。」とのこと。
これから始まる検査が想像を絶する”大激痛”と闘わなくてはならないとは、この時は微塵も考えていませんでした。
1階の「放射線検査室」へ入ると検査衣に着替え検査台へ横たわります。
「造影検査」で腫れている患部(二次口)から造影剤を入れて原発口を探っていきます。
造影剤を入れていくにつれて、
ぐぁーーーーーーー!
痛ったいーーーーーー!
うヴぅーーー!
うああああーー!
もう、「切開排膿で局所麻酔の上、切開する」といった痛みよりも、今までで体験した中で”最高級の大激痛”でした。
正直な気持ちは「もう、やめてくれ!頼むからやめてくれーー」でしたが、
この痛みを乗り越えないと今回の疾病(肛門周囲膿瘍、複雑痔瘻)を根本的に直せない。辛くても我慢するんだ!と思い、言葉にならない呻きを吠えて検査に耐えていました。
年甲斐もなく激痛に恥も外聞もなく泣いてしまいました。
それほど痛いのです。
例えるならば、幕末の頃 ”池田屋の変”の前に新撰組の拷問を受けた
「古高俊太郎」のようです。(見たわけではありませんが・・・)
”池田屋で討幕の志士たちの会合がある!”と白状すれば当時は拷問が解けたのでしょうが、私の場合はそうはいかない。
「原発口」が見つからないと、この拷問(検査)は終わらないのです。
痛みに意識が遠のくなか、ようやく検査が終わりました。
担当のY先生から
「○○さん、よく頑張りましたね。痛かったでしょう。でも、原発口がみつけられなかったんです。」
えーーーーーーーー!
あれだけ、拷問のような痛みに耐えたのに、見つけられてないなんて!
さらに、
せっかく取れた2本の管を排膿の為に再び付けることになりました。
(ストローよりも細い管を2本。急所側と肛門側に向けて刺さっています。股の間に5,6㎝程排膿の為に入っています。)
失意と痛みが続く中、私はよろよろと病室へ帰っていきました。これが再入院初日でした。
一週間後の、8月20日
この造影検査はもう一度行われました。
「また、あの拷問をするのですか?」
「祇園祭の宵山が終わって”池田屋の変”が終わってもまだ拷問が続くのですね。」
こう言った、歴史にもじったマニアックなジョークは病院では通じません。
再びあの”大激痛”と闘いましたが、目的である「原発口」が見つけられません。
またしても八方ふさがりです。
続く