
鳥取城跡 鳥取県鳥取市
令和6年(2024年)6月19日㈬ 撮影
鳥取駅から鳥取城跡のある久松山(標高263m)を目指します。
*鳥取城跡を訪れるのは2022年6月以来、2年ぶり

*鳥取城
鳥取県鳥取市(因幡国邑美郡)にあった戦国時代から江戸時代の城。国の史跡に指定され、別名は久松城(きゅうしょうじょう)・久松山城(きゅうしょうざんじょう)という。山名氏・武田氏・尼子氏・毛利氏の争奪戦の舞台となり、織田信長の中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉が兵糧攻めを用いて攻略した。開城後、入城した宮部継潤によって山上ノ丸の改修が行われ、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、麓の二の丸以下の曲輪が拡張された。現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残っている。戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化を窺うことができることから「城郭の博物館」の異名を持つ。
戦国時代の天文年間(1532 - 1555) 、因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきたが、近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されている。
正式に城主が確認されるのは、元亀年間(1570‐1573)の武田高信からである。高信はしだいに力をつけ永禄年間には鳥取城を拠点とした。1573年(天正元年)、高信を討つために山中幸盛ら尼子残党と結んだ山名豊国の攻撃を受け降伏、以後は尼子氏残党と毛利氏の勢力の戦いで何度か城主が入れ替わり、1581年(天正9年)毛利氏の重臣である吉川経家が城主となった。
1581年(天正9年)織田信長の家臣である羽柴秀吉により半年に及ぶ「兵糧攻め」にて開城、城主の吉川経家は切腹した。
開城後の鳥取城には羽柴秀吉の与力である宮部継潤が城代として入り、織田勢の山陰攻略の拠点とした。宮部継潤は豊臣政権に代わった1585年(天正13年)の九州征伐で功績を挙げ、正式に因幡・但馬のうち5万石を与えられ、正式な鳥取城主となった。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで宮部家は西軍に所属し、城主の宮部長房は因幡の外にいたので城代家老の伊吹三左右衛門や一族の者が留守を守ったが、関ヶ原での本戦終了後、東軍の亀井茲矩らに激しく攻められ開城する。長房は戦後改易されている。
関ヶ原の戦いのでの功により、池田長吉(池田氏)が6万石で入り、池田氏によって近世城郭に改修された。 1617年(元和3年)、さらに池田光政が因幡・伯耆32万5,000石の大封で入府、鳥取城も大大名に相応しい規模に拡張された。光政によって城下町の整備も行われたという。その後、ふたたび備前岡山藩に入っていた池田氏(長吉とは別系)と所領の交換が行われて池田光仲が入封、そのまま12代続いて明治維新を迎えた。
1873年(明治6年)に公布された廃城令によって存城とされ、陸軍省の所管となり第4軍管に属した[1876年(明治9年)鳥取県が島根県に編入されると、県庁所在地(松江市)以外に城は必要なしとの観点より、陸軍省によってすべての建造物は払い下げられ、1877年(明治10年)より1879年(明治12年)にかけて中仕切門と扇御殿化粧の間を残して解体された。最後に取り壊されたのは、鳥取城を象徴する建物となっていた二の丸の御三階櫓だったという。唯一現存していた中仕切門も1975年(昭和50年)3月に大風によって倒壊したが同年秋に木造復元された。現在は天守台、石垣が残っており、国の史跡に指定]されている。昭和44年から昭和51年まで、山麓北西から観光用のロープウェイが運行されていた。 1993年(平成5年)、鳥取城正面入口に吉川経家の銅像が建立された。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(63番)に選定された

鳥取城入口に建つ吉川経家像


*擬宝珠橋
中の御門に向けてかけられていた橋で大手橋に当たる。池田光政期の1621年(元和7年)7月に創建された。全長約36m・全幅約6m。鳥取城の大手橋として参勤交代の玄関になっていたほか、藩領の測量の起点となっていた。その他に、橋上で月見の宴が催されたり、端午の節句には若殿が橋の上に陣取って祭礼を見物するなどの行事が行われた。数度の改修・架け替えを経て、明治初期に鳥取城の建物が取り壊された後も、1897年(明治30)頃まで存続していた。2011年(平成23)に『史跡鳥取城附太閤ヶ平保存整備事業』の一環として発掘調査が行われた後、2018年(平成30)秋に復元された。国の特別史跡または史跡で文化庁が認めた近世城郭の木造橋としては、国内最長となる。なお、藩政時代に使用されていたこの橋の擬宝珠は、鳥取西高校資料室に保管されている。
wikipediaより引用

擬宝珠橋を渡ります。


*中ノ御門表門及び渡櫓門
1621年(元和7年)に池田光政により創建。慶長の大改築以後、大手門とされた。第10代藩主・池田斉稷が1817年(文化14)に11代将軍・徳川家斉の十三男である乙五郎(池田斉衆)を養嗣子として迎えたことから、外様大名としては唯一、居城に葵紋を使用することが認められた。。枡形を備える複門で二の門は櫓門となっていた。藩主在城の時は門の扉は開かれ、藩主が江戸出府中は閉ざされていた。1720年(享保5年)の大火で焼失したが同年中に再建された。1875年(明治8年)に解体。表門は2021年(令和3年)に江戸末期の姿に再建。 渡櫓門は2025年(令和7年)に完成予定。

2021年(令和3年)に江戸末期の姿に再建された
中ノ御門表門

この先は復元工事中、通り抜けはできません。


再びを擬宝珠橋を渡り

内堀の向こうに見えるのは重要文化財の仁風閣と二の丸の石垣

久松公園入口へ

重要文化財 仁風閣
1906年、鳥取城の扇御殿跡に、片山東熊の設計、橋本平蔵の監督によって起工し、翌1907年に竣工した。建築費は当時の金額で4万3335円。木造2階建て白亜塗りのフレンチルネッサンス様式で、1・2階共にベランダが設けられており、ガラス張りの2階バルコニーからは、市指定名勝である池泉回遊式日本庭園の宝隆院庭園を一望できる。
*仁風閣は2022年6月に入館

仁風閣は文化財保存修理のため2023年12/29日より約5年間、休館中。外観は2024年夏頃まで見学可能。


鳥取城の日本100名城スタンプは仁風閣ガイダンス施設に設置

仁風閣の敷地内には入れました、


仁風閣敷地内に建つ仁風閣ガイダンス施設
「鳥取城跡・仁風閣 展示館」

「鳥取城跡・仁風閣 展示館」
営業時間/9∶00〜17∶00
入場料/無料
休館日/毎週月曜日(祝日の場合は開館)、祝日の翌平日・年末年始

2023年5月から(個人的に)始めた日本100名城スタンプ及び続日本100名城スタンプ集め。
今回、2年ぶりに鳥取城跡を訪れたのは日本100名城スタンプを押すため

「鳥取城跡・仁風閣 展示館」にて販売されている御城印を購入。

外観は見ることができました。


仁風閣から見た二の丸石垣


宝隆院庭園
宝隆院は第11代藩主・池田慶栄の未亡人。若くして夫を亡くした宝隆院を慰めようと、池田慶徳が造った池泉回遊式の日本庭園。宝隆院の住まった扇御殿と呼ばれる御殿もあったが、後述の化粧の間を除き取り壊されてしまった。1907年(明治40年)、当時の皇太子(のちの大正天皇)の山陰行啓に際して宿舎として扇御殿跡に仁風閣が建てられた。その後、宝隆院庭園は鳥取大震災などにより荒廃を極めていたが、1971年(昭和46年)から1972年(昭和47年)にかけて復元・整備がなされた。



宝隆院庭園から見た仁風閣 宝扇庵



仁風閣をあとにして鳥取城跡へ向かう坂道、二の丸登り口へ
坂の途上に見えるのは中仕切門(西坂下門)

中仕切門(西坂下門)
鳥取県立博物館脇の二の丸登り口にあり、1867年(慶応3年)に創建された。鳥府志などの江戸時代の諸記録や絵図にはこの門は記載されていない。長年にわたり「お城の門」として市民に親しまれていたが、1975年(昭和50年)3月に強風のため倒壊した。その後、ほぼ旧態どおりに復元された。


