6月10日(金)

「令和4年6月上旬の旅」3日目は鳥取県鳥取市の鳥取城跡に来ました。

標高263メートルの久松山の麓には鳥取城跡の石垣

当ブログで鳥取城跡を訪れるのは9年ぶり3回目

 25(2013)年1月9日(水)



平成22(2010)年10月6日(木)




*鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市(旧・因幡国邑美郡)に築かれた戦国時代から江戸時代の日本の城である。国の史跡に指定[され、別名は久松城(きゅうしょうじょう)・久松山城という。戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化を窺うことができることから「城郭の博物館」の異名を持つ。織田信長の中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉が兵糧攻めを用いて攻略した。開城後、入城した宮部継潤によって山上ノ丸の改修が行われ、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、麓の二の丸以下の曲輪が拡張された。現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残っている。

wikpediaより引用
坂道を登り

二の丸へ

ま*二の丸は江戸時代初期には藩主の御殿が置かれ、鳥取城の中心であった。周囲に御三階櫓、走櫓、菱櫓などの建物があった。大手の入り口は鉄御門(くろがねごもん)。1718年(享保3年)三の丸に新御殿が建設されると二の丸が使われることは少なくなった。石黒火事で全焼したあと、御三階櫓と走櫓が再建されたのみで長らく放置されていたが、1844年(弘化元年)再び二の丸御殿が建設された。1849年(嘉永2年)には御三階櫓の西方が拡張され、角櫓や登り石垣が建造された。幕末には菱櫓も再建された。

wikipediaより引用


菱櫓跡

菱櫓跡からの眺め、鳥取の市街地が見えます。
先ほど訪れた仁風閣は眼下に 



鳥取城跡の見どころ 天球丸の巻石垣、

*天球丸は二の丸の一段上、平山城部の最高所にある。池田長吉の姉で若桜鬼ヶ城主・山崎家盛の夫人だった天球院が山崎家を去った後に居住していた。三階櫓、御風呂屋御門などの建物があり、池田光政入封後も天球院の居所が存在していたという。享保5年の石黒火事で焼失し、長らく放置されていたが、幕末には不穏な世情を背景にお稽古所が設置された。 近年の石垣復元に伴う発掘調査から、池田長吉による慶長の大改築の際に、宮部時代の石垣をもとにして郭が拡張されたことが明らかになった。また、この頃は現在の凸の字状の郭ではなく、東側が3段の石垣で造られ、中心部は2段の石垣で構成されたことも明らかになっている。現在のような形になったのは、長吉の後の池田光政の改築によるものと考えられている。 さらに、江戸時代後期には石垣のたわみを防ぐために球面を持つ巻石垣によって石垣下部が補強されたことも明らかになり、巻石垣が復元された。こうした巻石垣は港や河川の工事に用いられるのが主で、城郭の補強に用いられるのは、きわめて珍しい例である。

2011年(平成23年)5月、天球丸の巻石垣の修復が完了

wikipediaより引用


天球丸を登り巻石垣を上から眺めます。

このような巻石垣が城に使われる例は鳥取城以外にkないとのこと

過去2回の鳥取城訪問ではこの天球丸の巻石垣を見落としていました。
二の丸から先は久松山山上の山ノ上の丸、険しい坂道が続くのでパス

ここで山を降ります。

ちなみに過去2回の訪問でもここで引き返しました。
次に鳥取城跡を訪れる機会があれば山上まで行くべきか


坂道を降りると 二の丸登り口の中仕切門がみえてきました。 

中仕切門を潜りました。

中仕切門は鳥取城跡にある数少ない建築物ですが復元されたもの

再び約2キロ歩き鳥取駅へ

画像は鳥取駅ホームではなく

鳥取駅近く、地上時代の旧鳥取駅ホームが移設展示されている沢井手公園(鳥取鉄道記念公園)

2年前にも訪れました。


公園内には旧ホームやレール、信号機や踏切警報機などが展示、鉄道車両は展示されていません。





鳥取駅から上り山陰本線に乗車