名古屋城 
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愛知県名古屋市中区

令和6年(2024年)3月22日㈮ 撮影

名古屋天守閣の前に来ました。

*コチラの続きです。
名古屋城を訪れるのはぼぼ1年ぶり

*令和5年(2026)3月に訪れた名古屋城









天守閣は耐震性の問題から平成30(2018)年より入場禁止


小天守


名古屋城天守閣

本丸の北西隅に位置し、形式は大天守と小天守を橋台によって連結した連結式層塔型である。橋台には多門櫓は無く塀を巡らせ、軒先には槍の穂先を並べた剣壁であった。
天守は1612年(慶長17年)に完成し、以来333年間、何度かの震災、大火から免れ、明治維新後の廃城も免れたが、1945年(昭和20年)、第二次大戦の空襲で焼失した。
1959年(昭和34年)、鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)の再建天守が完成。

2018年(平成30年)5月、,現行の鉄筋コンクリート製復元天守公開終了。




本丸東一之門跡



本丸東一之門は昭和20年(1945年)の空襲で焼失

清正石



重要文化財 旧二之丸東二之門

名古屋城二之丸にあった門、二之丸に愛知県体育が建設されるにあたり、昭和47年(1972年)、本丸東櫓二之門跡に移築された。





平成30(2018)年復元の名古屋城本丸御殿


入場するには長い列に並ぶ必要性が




本丸御殿は1年前に観覧したので今回はパス


重要文化財 東南隅櫓





本丸御殿表書院



本丸御殿上洛殿



重要文化財 西南隅櫓









本丸御殿車寄





本丸表一之門跡

本丸表一之門は昭和20年(1945年)の空襲にて焼失

重要文化財 本丸表ニ之門



本丸を出てニ之丸へ。



重要文化財 西南隅櫓









重要文化財 東南隅櫓


東南隅櫓、奥に見えるのは本丸表ニ之門

近代前庭(ニ之丸御殿北西跡)

*名古屋城二之丸

当初藩主が本丸に居住していた頃は、この二之丸に将軍の御座所を設けていた。徳川家康や初期の徳川秀忠は上洛や大坂の陣の折にはこちらに滞在していたが、本丸御殿を御成専用にするため、二之丸にあった平岩親吉(1611年(慶長16年)没)の屋敷を改修して、1618年(元和4年)二之丸御殿とした。それ以後、二之丸御殿は「御城」と称され、藩主の住居兼尾張藩の藩庁機能を有することとなった。 本丸の南東に位置し、南御門と東御門の馬出しに接している。その面積は、本丸・西之丸・御深井丸の3つをあわせたものに相当した。北東、南西、南東にLの字型の隅櫓を建て、南辺中央に太鼓櫓があったが、北辺中央隅部には逐涼閣、北西隅部には迎涼閣と、およそ防御施設とは思えない亭閣を配置したのは二之丸庭園からの景観との関係があったと思われる。西と東に鉄御門(くろがねごもん)を備え、どちらも三之丸と連絡していた。この鉄御門も桝形・2重城門の構造で、多聞櫓で囲まれていたが、これ以外の二之丸の外周は、基本的に土塀で囲まれていた。
二之丸庭園は藩主専用の庭で、城郭内部にある庭園の規模としては前代未聞であった。初期は中国風庭園だったが後に純和風回遊式庭園となった。 二之丸御殿や4棟の櫓は名古屋鎮台となった1871年(明治4年)頃に取り壊され、現存しているのは西、東のそれぞれ鉄御門二之門の2棟であるが、東鉄御門二之門は本丸東御門二之門跡に移築されている。その他の二之丸内の建築物はすべて取り壊されたが、現在庭園の一部が復元整備されている。馬場跡には一時期名古屋大学本部など同大学の施設が置かれた後、同大学の東山キャンパス移転後は愛知県体育館が建てられている。

の施設が置かれた後、同大学の東山キャンパス移転後は愛知県体育館が建てられている。また、二之丸は名古屋城の前身で織田信長最初の居城であった那古野城の跡とされているため、それを記念する石碑が建てられている






栄螺山(さざえやま)





埋門跡











二子山


二之丸東庭園






東門入口を出て

金シャチ横丁を通り

地下鉄名城線名古屋城駅へ