この記事の続きです。
姫路城を訪れるのは2年ぶり
*2022年10月に訪れた姫路城

大天守地階に入ります。
*姫路城天守
江戸時代のままの姿で現在まで残っている12の現存天守の一つで、その中で最大の規模を持つ。姫路城の天守群は姫山(標高45.6m)の上に建っており、大天守自体の高さは、石垣が14.85m、建造物が31.5mなので合計すると海抜92mになる。天守の総重量は、現在はおよそ5,700tである。かつては6,200tほどであったとされるが、「昭和の大修理」に際して過去の補修であてられた補強材の撤去や瓦などの軽量化が図られた。天守内には姫路城にまつわる様々な物品が展示されていたが平成の大修理後は展示物を西の丸に移し、天守内部は何もない素のままの姿になっている。
姫路城の最初の天守は1580年(天正8年)、羽柴秀吉によって姫山の頂上、現在の大天守の位置に3重で建てられた。この天守は池田輝政により解体され、用材は乾小天守に転用された。 2代目の天守は池田輝政により建てられ、5重6階天守台地下1階(計7階)の大天守と3重の小天守3基(東小天守・西小天守・乾小天守)、その各天守の間を2重の渡櫓で結んでいる「連立式天守」である。天守は全て2重の入母屋造の建物を基部とする望楼型で、建設時期や構成からさらに後期望楼型に分類されることもある。壁面は全体が白漆喰総塗籠(しろしっくい そうぬりごめ)の大壁造で造られており、防火・耐火・鉄砲への防御に加え、美観を兼ね備える意図があったと考えられている。折廻櫓には編目格子が施されている。
wikipediaより引用

大天守地下 - 東西約11間半・南北約8間半。穴蔵と呼ばれている。簀の子の洗い場(流し台)と台所を付属させ、厠を3箇所設置している。武家の世界では多くの城で鬼門方位に厠をつくることが当時は常道とされていた、当城も裏鬼門に厠が配されていたとされ、鬼神の災いを恐れず覚悟を持った武将の気構えと捉えることができると述べている。



階段を上り一階へ


大天守一階
東西約13間・南北約10間。北側に東小天守と接続するイの渡櫓、西側に西小天守と接続するニの渡櫓。




二階へ

大天守二階
一階とほぼ同様の構造。地下から二階は身舎の周りに武者走りを廻し、鉄砲や槍などが掛けられる武具掛が付けられている。









三階へ

大天守三階
東西11間・南北8間。武者走りがあるが、それに加えて破風部屋と武者隠(むしゃがくし)と呼ばれる小部屋が数箇所設けられている。また、石打棚(いしうちだな)という中段を窓際に設けて、屋根で高い位置に開けられた窓が使えるように高さを補っている。

東大柱



上り階段横には西大柱


大天守四階
東西9間・南北6間。三階同様に石打棚がある。武具掛けのある比翼入母屋破風の間が南北に2箇所ずつ(計4箇所)ある。




大天守五階
東西9間・南北6間。大広間一室で4重目の屋根裏部屋に相当する。大柱はこの階の天井まで通っている






階段を上がり最上階六階へ

六階は平日午前でも多くの観光客

大天守六階
最上階。東西7間・南北5間。一段高い身舎周囲に入側を巡らしている。部屋の中央に柱を立てず、書院造の要素を取り入れ長押や棹縁天井など書院風の意匠を用いている。階 - 最上階。東西7間・南北5間。一段高い身舎周囲に入側を巡らしている。長壁神社が分祀されている。







長壁神社



大天守を下りました。

大天守一階 武具掛け


大天守からイの渡櫓へ
イ・ロ・ハ・ニの渡櫓
大天守と各小天守を連結している渡櫓。イ・ロ・ハの渡櫓はいずれも2重2階・地下1階、ニの渡櫓は水の五門が付属して2重2階の櫓門になっている。天守群と渡櫓群で囲まれた内側に台所櫓があり大天守地階とロの渡櫓1階を繋いでいる


東小天守へ


東小天守
3重3階・地下1階で天守丸の北東に位置する。西小天守や乾小天守のような火灯窓や軒唐破風はない。建設当初は丑寅櫓(うしとらやぐら)と呼ばれていた。


東小天守内 軸祖構造模型
昭和の大修理の時、大天守解体修理における構造を把握検討するため1/20で製作された模型。


東小天守からロの渡り櫓へ


ロの渡り櫓


ロの渡り櫓から乾小天守へ

乾小天守
3重4階・地下1階で天守丸の北西に位置する。建設当初は乾櫓(いぬいやぐら)と呼ばれていた。羽柴秀吉が築城した三重天守であったという説があり「昭和の大修理」では秀吉時代の木材が転用された事が分かっている。










ニノ渡櫓から出口へ

備前丸からみた大天守と西小天守

