東大寺

奈良県奈良市

奈良県奈良市


令和6年(2024年) 2月22日㈭ 撮影

大仏殿を出て三月堂に向かいます。

*コチラの続きです。
大三月堂へ向かう途上に鎮座する神社、手向山八幡宮

*手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)

奈良県奈良市にある神社。旧社格は県社。手向山神社とも。奈良市街東部の手向山麓に位置。東大寺大仏殿前の道を東に行った正面に位置し、すぐ北には東大寺法華堂(三月堂)がある。手向山は紅葉の名所として知られ、古今和歌集では菅原道真が「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んでいる。


楼門



法華堂経庫(重要文化財)

法華堂の南方に建つ校倉造倉庫。平安時代初期。道を挟んですぐ南にあるもう1棟の校倉は、東大寺鎮守の手向山八幡宮の宝庫である。 


法華堂(国宝) 

奈良時代(8世紀)建立の仏堂である。東大寺に現存する数少ない奈良時代建築の1つであり、堂内に安置する10体の仏像も奈良時代の作である。
「三月堂」の通称で知られる法華堂は、東大寺境内東方の丘陵部に位置する、不空羂索観音立像を本尊とする仏堂である。東大寺は広大な境内を有するが、このうち法華堂が位置する東方丘陵部の一画を「上院」(じょういん)と称し、法華堂のほか、「お水取り」で知られる二月堂、東大寺開山の良弁の像を祀る開山堂など、多くの建物がある。この付近は大仏開眼(752年)以前から、東大寺の前身寺院があった場所で、法華堂はその主要堂宇の1つであった。 東大寺では、治承4年(1180年)の平重衡の兵火と、永禄10年(1567年)の三好・松永の兵乱とにより、創建当時の建物の多くが失われた。東大寺に現存する奈良時代の建物としては(転害門、(てがいもん)と本坊経庫などの校倉(あぜくら)があるが、奈良時代建立の仏堂で現存するものは法華堂のみである。法華堂は奈良時代仏堂の数少ない現存例として貴重であり、安置される仏像群とともに天平盛期の文化を今日に伝えている。
『東大寺要録』「諸院章」には、「羂索院」は天平5年(733年)、良弁が不空羂索観音を本尊として創建したものであると記されている。実際の創建時期については、かつては天平年間の後半(740年代)とされていたが、年輪年代調査の進展等により、『東大寺要録』のいう天平5年(733年)に近い頃の建立とする説もある。






入堂料600円、今回は外から眺めるだけ

三昧堂(重要文化財)

延宝9年(1681年)建立。寄棟造二重、本瓦葺き。四月堂、普賢堂とも呼ばれ、三月堂の西に建っている。元は宝形造だったが、江戸時代の改修で現在の二重寄棟造になった。本尊十一面観音立像(重要文化財)、阿弥陀如来坐像(重要文化財)、普賢菩薩騎象像などを安置する。旧本尊の千手観音立像(重要文化財)は東大寺ミュージアムに移されている。



三月堂の左奥には二月堂


二月堂(国宝)

奈良時代(8世紀)創建の仏堂。現存する建物は1669年の再建で、国宝に指定されている。奈良の早春の風物詩である「お水取り」の行事が行われる建物として知られる。「お水取り」は正式には修二会といい、8世紀から連綿と継続されている宗教行事である。二月堂は修二会の行事用の建物に特化した特異な空間構成をもち、17世紀の再建ながら、修二会の作法や習俗ともども、中世の雰囲気を色濃く残している。
金堂(大仏殿)の東方、坂道を上り詰めた丘陵部に位置する、十一面観音を本尊とする仏堂である。すぐ南には三月堂の通称で知られる法華堂がある。これらの堂が所在する一画を「上院」(じょういん)と称し、大仏開眼以前から存在した、東大寺の前身寺院があった場所である。 東大寺は治承4年(1180年)の平重衡の兵火と、永禄10年(1567年)の三好・松永の兵乱とにより創建時の建物の大部分を失っている。二月堂はこれらの兵火では類焼をまぬがれた[1]が、寛文7年(1667年)、修二会の満行に近い2月13日に失火で焼失。現存する二月堂はその直後の寛文9年(1669年)、江戸幕府の援助を得て、従前の規模・形式を踏襲して再建されたものである。


石段を登り

二月堂へ















二月堂北側の階段は屋根付きで「登廊」と称され、練行衆が参籠宿舎から二月堂へ上堂する時にここを通る。南側の階段は3月12日深夜の「水取り」の時に若狭井へ下りる際に使用される。

登廊の下には参籠所(重要文化財) 



二月堂で頂いた御朱印です。

登廊を下ります。




参籠所(重要文化財) -

登廊の下に位置する。重要文化財名称は「参籠所」だが、正確には北半分が参籠所、南半分が食堂(じきどう)で、その中間の通路(登廊に通ずる)は細殿と呼ばれる。食堂には賓頭盧尊者(ぴんずるそんじゃ)像と重要文化財の訶梨帝母(かりていも、鬼子母神)像を安置する。室町時代の建物。 





坂を下り



正倉院へ向かいます。




正倉院「正倉」外構の公開は平日の月曜日から金曜日まで(休日等を除く)、午前10時から午後3時


正倉院は宮内庁正倉院事務所が管理



















正倉院(国宝)

東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あぜくらづくり)の大規模な正倉(高床倉庫)。聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平文化を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、1997年(平成9年)に国宝に指定され、翌1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
江戸時代までは朝廷の監督の下、東大寺によって管理されていた。1875年(明治8年)、収蔵されていた宝物の重要性に鑑み、内務省の管理下に移った。1881年(明治14年)4月7日、農商務省の設置に伴い、内務省博物局が農商務省へ移管され、1884年(明治17年)5月に宮内省所管となった。1908年(明治41年)4月、正倉院は帝室博物館の主管となり、1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行により正倉院を含めて皇室用財産が国有財産になったことに伴い、宮内府図書寮の主管となった。現在は宮内庁の施設等機関である正倉院事務所が正倉院宝庫および正倉院宝物を管理している。






正倉院の瓦が展示



正倉院を後にして

大仏殿の裏側を歩き

奈良奥山ドライブウェイの脇を通り過ぎ

国宝の転害門を見に行きました。


転害門(国宝)

天平宝字年間(757年 - 765年)建立。東大寺境内西北、正倉院の西側にある八脚門。治承4年(1181年)、永禄10年(1567年)の2回の大火にも焼け残った寺内で数少ない建物の一つ。鎌倉時代の修理で改修されているが、基本的には奈良時代の創建時の姿を残す建物である。名称の由来は、東に碾磑(てんがい、石臼)があったことに因む。別名として、平城京の一条通(佐保路)に面していたので佐保路門(さほじもん)とも、平家一門の怨みを晴らすべく源頼朝を暗殺しようと悪七兵衛景清が隠れていたという伝承から景清門とも呼ばれる。