東大寺

奈良県奈良市


令和6年(2024年) 2月22日㈭ 撮影

小雨の降る中、東大寺に来ました。鹿さんのお出迎え




南大門(国宝)

平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの。東大寺中興の祖である俊乗房重源が宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様ともいう)を採用した建築として著名である。大仏様の特色は、貫と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられる。門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重要文化財)を安置する。







南大門の左右には金剛力士立像(国宝)、画像は左に建つ阿形(あぎょう)


右に建つ吽形(うんぎょう)

*木造金剛力士立像(国宝) 

高さ8.4メートルの巨大な木像。建仁3年(1203年)にわずか69日で造られた。門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置する。これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆である。 『東大寺別当次第』という史料により、本像は建仁3年(1203年)、大仏師運慶、備中法橋(湛慶)、安阿弥陀仏(快慶)、越後法橋(定覚)によって造立されたことが従来から知られており、阿形像と吽形像の作風の違いから、前者は快慶、後者は運慶が主となって制作したと考えられていた。1988年(昭和63年)から1993年(平成5年)にかけて造像以来初めての解体修理が実施され、像内からは多数の納入品や墨書が発見された。阿形像の持物の金剛杵の内面には、建仁3年の年紀とともに「大仏師法眼運慶」「अं〔アン、梵字〕阿弥陀仏」(快慶のこと)の名が記され、吽形像の像内に納入されていた『宝篋印陀羅尼経』(ほうきょういんだらにきょう)の奥書には大仏師として「定覚」「湛慶」の名と小仏師12名の名が記されていた。運慶が制作の総指揮に当たったとする点では研究者の意見が一致しているが、阿形像・吽形像の現場での制作を運慶、快慶、定覚、湛慶がどのように分担したかについては解釈が分かれている。

南大門を潜りました。









大仏殿の前に建つ中門(重要文化財)が見えてきました。



中門(重要文化財)

享保元年(1716年)9月再建。大仏殿の手前にある入母屋造の楼門(2階建ての門)。持国天と多聞天が祀られているが、多聞天が兜跋毘沙門天となっており大変珍しい形式である。中門の両脇から「コ」の字形に回廊が伸び、金堂の左右に至る。

中門は閉ざされています。回廊の脇を歩き大仏殿入口へ



大仏殿入堂券 600円にて大仏殿へ

大仏殿(国宝)

当初の大仏・盧舎那仏および大仏殿は、聖武天皇の発願により、8世紀に造られたものであったが、その後2度の兵火で焼け落ち、現存する大仏殿は江戸時代の再建。大仏は台座と袖、脚などの一部に当初部分を残すのみで、体部の大部分は中世の作、頭部は江戸時代の作である。 聖武天皇は天平15年(743年)、大仏造立の詔を発した。当初、紫香楽宮の近くの甲賀寺で造立の始まった大仏は、その後現在地の奈良で改めて造立を開始。天平勝宝4年(752年)に開眼供養が行われた。治承4年(1181年)の南都焼討の兵火で大仏殿は焼失、大仏も台座や下半身の一部を残して焼け落ちた。その後、大仏と大仏殿は重源の尽力により再興され、文治元年(1185年)に大仏の開眼供養、建久元年(1190年)には大仏殿の上棟式、建久6年(1195年)には大仏殿落慶供養が行われた。この鎌倉復興大仏も永禄10年(1567年)の東大寺大仏殿の戦いによって再び炎上した。大仏殿の再建はすぐには実施されず、大仏は仮修理の状態のまま、露座で数十年が経過したが、江戸時代になって公慶上人の尽力により大仏、大仏殿とも復興した。現存する大仏の頭部は元禄3年(1690年)に鋳造されたもので、元禄5年(1692年)に開眼供養が行われている。大仏殿は宝永6年(1709年)に落慶したものである。 文化3年(1806年)、下層の屋根がその重みに耐えられず波打って垂れ下がってきたために屋根を支える支柱を設けている。1877年(明治10年)頃から修理の計画が検討されるがなかなか行うことができず、本格的な修理が施されたのは1906年(明治39年)からであった。その際、大屋根を支える虹粱にイギリス製の鉄骨トラスが組み込まれている。1915年(大正4年)、大仏殿落慶供養が行われた。 大仏殿は寄棟造、本瓦葺き。2階建てに見えるが、構造的には一重裳階(もこし)付きで、正面5間、側面5間の身舎(もや)の周囲に1間の裳階を回している。間口57メートル、奥行50.5メートル、高さ46.8メートルで、奥行と高さは創建時とほぼ変わりないが、間口は約3分の2に縮小されている。建築様式は、鎌倉時代に宋の建築様式を取り入れて成立した大仏様(だいぶつよう)が基本になっており、水平方向に貫(ぬき)を多用するのが特色である。

豊臣秀吉・豊臣秀頼父子による、初代・2代目方広寺大仏殿の相次ぐ造営によって、柱材に適した巨木を多数伐採してしまっており、この頃には既に巨材の調達が困難であったため、柱は芯材の周囲に桶状に別材を巻きつけた集成材が用いられている。
大仏の左右には脇侍として木造の如意輪観音坐像と虚空蔵菩薩坐像を安置。堂内北西と北東の隅には四天王のうちの広目天像と多聞天像を安置する。いずれも江戸時代復興期の像である。四天王のうち残りの2体(持国天、増長天)は未完成に終わり、両像の頭部のみが大仏殿内に置かれている。の大仏・盧舎
大仏殿内へ入ります。

大仏殿から見た中門

国宝の大仏(盧舎那仏像) 

盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)

東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像(大仏)。一般に東大寺大仏、奈良の大仏として知られる。
聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。後世に複数回焼損したため、現存する大部分が再建であり、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。「銅造盧舎那仏坐像」として国宝に指定されている。





大仏蓮弁・蓮華蔵世界図(原寸模型)


大仏殿の鴟尾(しび)

鴟尾(しび)とは、瓦葺屋根の大棟の両端につけられる飾りの一種である。訓読みではとびのおと読む。沓(くつ)に似ていることから沓形(くつがた)とも呼ばれる。

木造如意輪観音坐像・虚空蔵菩薩坐像(重要文化財) 大仏の左右に脇侍として安置される。これらの像は大仏(銅造)とは異なり木造の寄木造である。大勧進公俊の時代、京都の仏師山本順慶一門と、大坂の仏師椿井賢慶一門らにより、30数年をかけて製作されたもので、江戸時代の代表的な仏教彫刻である。如意輪観音像は元文3年(1738年)ごろの完成、虚空蔵菩薩像は遅れて宝暦2年(1752年)の完成。

虚空蔵菩薩坐像(重要文化財) 


大仏の右に脇侍として安置される。大仏(銅造)とは異なり木造の寄木造である。大勧進公俊の時代、京都の仏師山本順慶一門と、大坂の仏師椿井賢慶一門らにより、30数年をかけて製作されたもので、江戸時代の代表的な仏教彫刻である。宝暦2年(1752年)の完成。

















後ろから見た盧舎那仏像(大仏)

大仏殿の内部には大仏の鼻の穴と同じ大きさと言われる穴があいた柱があり、そこをくぐることを柱くぐりと言う。そこをくぐり抜けられればその年にいいことがある、あるいは頭が良くなるなどと言われている。

私はくぐりませんでした。



持国天像 頭部

江戸時代 一八世紀

未完成に終り頭部のみ


多聞天像 江戸時代作







木造如意輪観音坐像(重要文化財) 

大仏の左右脇侍として安置される。大仏(銅造)とは異なり木造の寄木造である。大勧進公俊の時代、京都の仏師山本順慶一門と、大坂の仏師椿井賢慶一門らにより、30数年をかけて製作されたもので、江戸時代の代表的な仏教彫刻である。如意輪観音像は元文3年(1738年)ごろの完成。








東大寺大仏殿にて頂いた御朱印



大仏殿の外に出ました。正面から見て右には坐像

賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)

江戸時代 木造





回廊を歩き

大仏殿出口へ