令和6年(2024年)6月6日㈭


根岸線に乗り横浜へ、相鉄の駅へ向かい

相鉄にて発売されている

「令和6年6月6日記念入場券」

を購入


2週間ぶりに相鉄に乗車

沿線のほとんどの駅がホームドアに

大和で下車

大和駅から東方に伸びるプロムナード(歩行者用道路・遊歩道)を歩きます。この真下には相鉄本線の地下区間。


2週間前、マンホールカードを頂くために訪れた

大和市文化創造拠点  シリウス

前回はマンホールカードを貰いながらデザインマンホールを撮影を忘れていました……

という「失態」をしてしまいましたが


デザインマンホールはシリウスの前にありました。



シリウス2Fに鎮座する大和天満宮にお参り


*大和天満宮

神奈川県大和市の大和駅東方にある大和市文化創造拠点シリウスの2階屋外に鎮座している神社。
厚木基地内にあった厚木空神社(祭神・天照大神)を、終戦後の1945年(昭和20年)8月20日に、現在地へと遷座したのが起源とされる。その際、全役員協議の結果、学問の神として知られる菅原道真公を祭神として「日本復興の道標にすべし」と満場一致で決定し、九州の太宰府天満宮から勧請し、「南大和天満宮」と命名され、後に「大和天満宮」へと改名された。 2016年(平成28年)11月3日竣工の大和市文化創造拠点シリウスの開発に伴い、当施設の2階屋外へと移動した。

wikipediaより引用


2週間前にお参りした時は御朱印帳を持参せず

今回は御朱印帳を持参していたので御朱印を頂けました。

遊歩道が途切れる先、地上に出る相鉄の線路

相鉄の線路沿いの道を歩き

深見神社へ

深見神社

神奈川県大和市深見に鎮座する神社。西暦927年(延長5年)の『延喜式神名帳』に記載されている相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)とされる。
『総国風土記』によると「雄略天皇22年(478年)3月に創祭」とあるが、正確な創建時期は不明である。また、当時祀られていた祭神は「闇龗神」とも記述されている。深見という地名は、承平年間(931年-938年)に編纂された『倭名類従抄』に「相模国高座郡深見郷」と記されたのが文献上の初出となっており、ここでも現在の地域より広い範囲を表す総称となっている。 当社の縁起では、「東国の平定を目的とする武甕槌神(当社の祭神、タケミカヅチ)が舟師を率いて常陸鹿島より深海に進軍した際、伊弉諾神(イザナギ)の御子である倉稲魂神(ウカノミタマ)と闇龗神(クラオカミ)によりこの地が治められた。そして、雨神である闇龗神はこの地に美田を拓き土民による郷を開いた」とされており、これが深見の始まりとされる。 かつてより地元の民衆(地方土民)による信仰の中心とされてきたが、源頼朝や小田原北条、武田信玄のほか渋谷庄司重国、太田道灌らにも特に篤く信仰されてきた。 1873年(明治6年)太政官布告で郷社に列せられた。しかし、3年後の1876年(明治9年)[3]には隣の仏導寺の火災の煽りを受け、社殿から古文書に至るまで尽く焼失し荒廃、公称社格も不詳となった。1909年(明治42年)、深見の諏訪の森に鎮座していた末社の諏訪神社と合併し、祭神の「建御名方神」を当社へ同列に合祀した(相殿)。なお、この時点では仮の社殿(仮殿)であり本殿等は造られていない。以降、社殿等の復興が幾度も計画されるが実現に至らず、焼失から66年後の1941年(昭和16年)になってようやく現在の位置に再建された(当社社殿の他に鳥居、末社なども造られた)。翌年には再び郷社に列せられている(旧社格制度は1946年(昭和21年)に廃止された)。 2012年(平成24年)には再建70周年を記念して新しい社号標を建立し、『延喜式神名帳』に登載されている当時の祭神である「闇龗神」が御倉稲荷神社より本殿に合祀された。

wikipediaより引用
参道に建つ

深見神社社号標(大和市指定重要有形文化財)

 1791年(寛政3年)に建立。正面には「相模國十三座之内深見神社」と記されている。


境内へ、





静かな境内、時折聞こえてくるのは近くを走る相鉄電車の走行音





御朱印を頂きました。

再び大和から相鉄に乗り



終点の海老名へ

海老名からは小田急

ちょうど特急が来たので

乗ってしまいました。

海老名〜小田原 特急料金650円









小田原に来ました。

3週連続の小田原訪問







小田原駅から小田原城へ向かう途上の道に設置されているデザインマンホール

所用を終えると日が暮れて

東海道本線に乗り帰途に