和歌山城 

 和歌山県和歌山市 和歌山城公園

令和5年(2023年)11月29日㈬ 撮影

和歌山城公園内、天守のある標高48.9mの虎伏山の周囲を回った後、裏坂から天守を目指します。  

*この記事の続きです。

*和歌山城

和歌山県和歌山市一番丁にある城(平山城)。徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城である。城跡は国の史跡に指定されている。

和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)山頂に建造され、北部を流れる紀の川を天然の堀とする。本丸の北側に二の丸が配され、その外に大きく三の丸が配された、梯郭式平山城である。

 豊臣秀吉の弟・豊臣秀長は、1585年(天正13年)の紀州征伐の副将軍として参陣し、平定後に紀伊・和泉の2ヶ国を加増された。当時は「若山」と呼ばれたこの地に秀吉が築城を命じ、1年で完成させた。この際に「若山」が「和歌山」と改められている。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が軍功により37万6千石を与えられ紀州藩主となり入城した。1605年(慶長10年)頃、下見板張りの天守が建てられた。その後、長晟が土塁から石垣に改修した。
 1619年(元和5年)、浅野氏は改易となった福島正則の後、広島藩に加増転封となった。代わって徳川家康の十男・頼宣が55万5千石で入城し、南海の鎮となる御三家の紀州徳川家が成立した。頼宣は兄の2代将軍徳川秀忠より銀5千貫を受領し、これを元手に1621年(元和7年)より城の改修と城下町の拡張を開始した。しかし、この改修が大規模であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどであった。 1655年(明暦元年)11月、西の丸に隣接する家臣屋敷より出火。西の丸・二の丸に延焼した。1813年(文化10年)には西の丸大奥より出火し西の丸御殿が全焼した。 1846年(弘化3年)7月26日に雷雨があり、天守曲輪に落雷。御殿を除く大小天守など本丸の主要建造物が全焼した。当時の武家諸法度では天守再建は禁止されていたが、御三家という家格により特別に再建が許可され、1850年(嘉永3年)に大小天守等が再建された。
1871年(明治4年)、廃城令により廃城となり、多くの建造物が解体もしくは移築された。1901年(明治34年)に本丸・二の丸一帯が、和歌山公園として一般開放された。 1931年(昭和6年)に国の史跡に指定され、1935年(昭和10年)には、天守など11棟が国宝保存法に基づく国宝に指定された。しかし、1945年(昭和20年)7月の和歌山大空襲により天守などの指定建造物11棟すべてを焼失した。 1957年(昭和32年)、岡口門とそれに続く土塀が国の重要文化財に指定された。1958年(昭和33年)に天守群が鉄筋コンクリートにより再建された。 1983年(昭和58年)には1909年(明治42年)に老朽化し崩壊した大手門と一之橋が復元された。 2006年(平成18年)4月、二の丸と西の丸を結んでいたとされる御橋廊下の復元工事が竣工した。また、同年4月には日本100名城に認定された。  2010年(平成22年)6月から、2011年(平成23年)2月にかけて、大天守(1層)や天守曲輪の一部に対し、クリーニング及び再塗装を実施した。 2019年(平成31年)3月8日、都市公園としての名称が和歌山公園から和歌山城公園に変更された。

wikipediaより引用

急な坂道

裏坂を登る途上にある井戸、銀明水
銀明水は本丸の日常用水、籠城時の非常用水

さらに坂を登り
天守が見えてきました。

このような坂道を登りました。
天守
天守の向いの石垣は本丸御殿跡
天守閣の撮影ポイントとのこと

本丸御殿跡に登りました。
本丸御殿跡から見た天守

本丸御殿

虎伏山の頂上付近にあったため、藩主は二の丸御殿に住むようになっていった。初代・徳川頼宣と正室・瑤林院(加藤清正の娘)、14代・徳川茂承と正室・倫宮則子女王(伏見宮邦家親王の娘)が邸宅に定めた。また、倫宮則子女王が住んだため、宮様御殿とも称された。 1621年(元和7年)に造られた本丸庭園には、宝船を模した七福の庭があったが、給水場設置に伴い、1923年(大正12年)に松の丸へ移築された。
天守へ向かいます。

*天守 

天守は大天守と小天守が連結式に建てられ、更に天守群と2棟の櫓群が渡櫓によって連ねられた連立式と呼ばれるものである。姫路城、松山城と並んで日本三大連立式平山城の一つに数えられている。 1850年(嘉永3年)再建当時の大天守は3重3階で、天守台平面が菱形であるため、初重に比翼入母屋破風を用いて2重目以上の平面を整えている。南面に入母屋出窓があり、初重には曲線的な石落としが付けられていた。焼失した天守の創建年は不明であるが、それについては浅野幸長が創建したとする説(1600年(慶長5年)築)と頼宣が創建したとする説(1619年(元和5年)築)がある。創建時は、下見板張りの壁面であったと考えられている。 1847年(弘化4年)に焼失した際、大天守を5重にする案も出され、天守雛形(木組み模型)と図面が作成されたが、幕府への遠慮と財政難のため、構造は先代天守を踏襲し外部壁仕上げを下見板張りから白漆喰総塗籠めへ意匠を変えるにとどまったものとみられている。 天守は国宝(旧国宝)に指定されていたが、和歌山大空襲で焼失し、現在のものは、1958年(昭和33年)に再建されたものである。鉄筋コンクリート構造による外観復元とされた。

wikipediaより引用
天守入口とチケット売場


大天守
二の門櫓


天守閣に入場します。

和歌山城天守閣

入場料 大人 410円 小人 200円(小・中学生) 

 利用時間 9:00〜17:30(入場は17:00まで) 

休み 12月29日から12月31日 


天守閣チケット売場にて御城印2種類を購入 

日本100名城スタンプを押しました。

チケット売場の先には楠門(天守二の門)

楠門 (天守二の門) 

天守閣二の門にあたり、総楠木造りであったため楠門と称されている。 1846年(弘化3年)落雷により消失、1850年(嘉永3年(1850年)に再建されたが第二次大戦の空襲によら1945年(昭和20年)、再び消失、現在の檜門は一九四五)戦火のため、またもその姿を消した。 1958年(昭和33年)再建。 戦災で焼失した天守曲輪で唯一、木造で復元された。 
楠門を潜り
内側から見た二の門櫓
小天守から入場


撮影可能な展示品のみ撮影
白虎
紀州藩大名駕籠





三階最上階に来ました。


左は二の門櫓、右は乾櫓

小天守







再び一階へ、多聞に続く廊下



楠門(天守二の門)の中を通り過ぎ




埋門は立入禁止
出口から外に

乾櫓
新裏坂から虎伏山を下ります。







*岡口門

浅野時代には大手門であったが、浅野時代の後期に大手門から搦手門として修復された。1621年(元和7年)に徳川頼宣が行った城の大改修の際に再建された櫓門が現存している。現在の門櫓は切妻屋根であるが当初は、門櫓の両側に続櫓があった






大手門
現在の大手門は昭和57年(1982年)再建。

一の橋


日が暮れできました。和歌山駅へ向かいます。