
令和5年(2023年)7月15日㈯
北海道&東日本パスを使用する旅の4日目は、東北本線の国府多賀城で下車、ここは宮城県多賀城市
*この記事の続きです。
*北海道&東日本パス
JR北海道線、JR東日本線、青い森鉄道線、いわて銀河鉄道線及び北越急行線の普通列車(快速含む)普通車自由席及びJR東日本のBRTが乗り降り、新函館北斗~新青森間内相互発着の場合に限り、別に特定特急券購入により北海道新幹線の普通車の立席(空いてる席が)が利用可能
発売箇所 :JR北海道・JR東日本の主な駅の指定席券売機・みどりの窓口及び主な旅行会社
利用期間 【春季】2023年 3月 1日~2023年 4月22日 【夏季】2023年 7月 1日~2023年 9月30日 【冬季】2023年12月10日~2024年 1月10日
発売期間 【春季】2023年 2月20日~2023年 4月16日 【夏季】2023年 6月20日~2023年 9月24日 【冬季】2023年12月 1日~2024年 1月 4日

駅周辺は古代に陸奥国府と鎮守府が置かれていた多賀城跡。
すでに18時すぎ、日照時間の長い七月でも暗くなってきました。日没までに多賀城跡を歩きます。
すでに18時すぎ、日照時間の長い7月でも暗くなってきました。

国府多賀城駅前にある丘、館前遺跡

説明板によると
台地上に位置する本遺跡は、多賀城跡の南東隅から200mほどの距離にあり、さらに政庁跡との距離は600mになります。またここから南東方向500mの高崎丘陵上には多賀城廃寺があり、本遺跡は政庁と廃寺を結ぶ線のほぼ中間に位置しています。
この遺跡からは掘立柱建物跡六棟、溝跡、整地層などが発見されており、六棟の建物跡は9世紀前半に存在していたものと考えられます。
さらに、六棟の中でも中心に位置するものは、四面に庇の付く格の高い建物です。このような建物は県内では「陸奥国府」が置かれた多賀城跡などで数例確認されているのみであり、しかもそのうちの一例は多賀城の政庁正殿であることから、四面庇付建物の持つ意味は本遺跡の性格を考える上で極めて重要です。
本遺跡は、多賀城に赴任した国司の館跡と考えられ、その重要性から昭和55年3月に特別史跡多賀城跡附寺跡の一部として追加指定されました。

駅から歩くこと500m、広い公園と池が見えてきました。ここが多賀城跡らしい。
この日は秋田県内の大雨の影響で乗車予定だった北上線が運休により旅の行程を変更、多賀城跡を訪れました。
急遽訪れたので多賀城跡がどのような場所であるか「予習」せず、行き当たりばったりで訪れました。
*多賀城
現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった。
奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。
創建は神亀元年(724)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから11世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。第1期は724年 - 762年、第2期は762年 - 780年で天平宝字6年(762)藤原恵美朝狩が改修してから宝亀11年(780)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、第3期は780年 - 869年で焼失の復興から貞観11年(869年)の大地震(貞観地震)による倒壊[7][注 1]および溺死者千人ばかりを出した城下に及ぶ津波[8]被災[注 2]まで、第4期は869年 - 11世紀半ばで地震及び津波被災からの復興から廃絶までに分けられる。
の新政府、陸奥将軍府が誕生。
昭和36年(1961年)- 多賀城跡とその周辺の調査が始まる。 昭和41年(1966年) 遺跡は国の特別史跡に指定される。 平成18(2006)年 日本100名城に認定される。
wikipediaより引用

