令和5年(2023年)3月15日㈬


今春1回目の青春18きっぷ使用は東海道本線を乗り継ぎ

横浜〜熱海〜浜松〜大垣〜米原〜京都〜長岡京〜山崎と乗り継ぎ、山崎では駅近くの離宮八幡宮を参拝した後、再び駅前へ

山崎駅駅舎の背後に見えるのは標高270mの天王山

、天正10年(1582年)の明智光秀と羽柴秀吉が戦った「山崎の戦い」での、「天下分け目の天王山」として知られています。

*この記事の続きです。

JR京都線(東海道本線)の踏切を渡ると天王山の入口

先ほど参拝した離宮八幡宮にて山崎城の御城印を購入しました。

御城印を手に入れたならば城跡に行かねば、天王山にある山崎城跡へ向かいます。

「天王山登り口」、舗装はされているが急な坂

石碑の脇にある説明板は
山崎宗鑑冷泉庵跡

山崎 宗鑑(1465年−1554)は、戦国時代の連歌師・俳諧作者。

室町幕府9代将軍足利義尚に仕え、 義尚が没後、世の無常を感じ出家、山崎で過ごした。
それにしてもキツイ坂です。

宝積寺の仁王門が見えてきました。

*宝積寺

京都府乙訓郡大山崎町大山崎にある真言宗智山派の寺院。山号は天王山。
山城国(現・京都府)と摂津国(現・大阪府)の境に位置し、古くから交通・軍事上の要地であった天王山(270m)の南側山腹にある。寺伝では神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝える。
 天正10年(1582年)、天王山が羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いの舞台となり、その際宝積寺には秀吉の本陣が置かれた。山崎の戦いの後、秀吉は天王山にあった城跡を大改築して山崎城を築城すると、宝積寺をも取り込んだ。このため城は「宝寺城」とも呼ばれた。山崎城は秀吉が大坂城を築くまでその居城とされた。 山崎城は 天正12年(1584年)に廃城
宝積寺仁王門は京都府登録有形文化財、江戸時代初期の再建、左右に立つ木造の金剛力士像は重要文化財
鎌倉時代築とされる金剛力士像、秀吉もこの像を眺めたのであろうか?


宝積寺の境内に入ります。参拝者の姿は少なく静かです。

 慶長9年(1604年)建立の三重塔は重要文化財
豊臣秀吉一夜之塔

この三重塔は秀吉が一夜で建てたという伝説がありますが、三重塔建立は秀吉の没後


説明板には山崎合戦の後に秀吉が三重塔を一夜で建立したと記されています。

本堂へ続く道
京都府登録有形文化財の宝積寺本堂 は 慶長11年(1605年)改築。入母屋造、本瓦葺。内陣の厨子に本尊・十一面観音立像(重要文化財)を安置する。 九重石塔(大山崎町指定有形文化財) - 聖武天皇の供養塔

本堂内には本尊・十一面観音立像(重要文化財)が安置されています。

出世石 -

山崎の戦いの際、羽柴秀吉がこの石に腰を下ろして采配を振るったという。これ以降秀吉が出世して関白、天下人になったことからこの石は「出世石」と呼ばれるようになった。

石は柵に囲まれて、コロナ感染拡大防止のため、触れないようにと注意書き
本堂左に位置する「小槌宮」

大黒天様がが祀られています。
閻魔堂
閻魔堂には鎌倉時代作の閻魔大王像が祀られています。


宝積寺の本堂・閻魔堂の拝観は午前9時より午後4時まで

時刻は午後4時近く、すでに拝観時間は終わっていました。 


宝積寺仁王門付近からの眺め、淀川が見えます。

宝積寺は天王山の中腹、そろそろ疲れてきましたので山頂にある山崎城跡へ向かうのは断念、再び山崎駅へ向かいます。

先ほど同様、山崎駅に駅員は不在でした。

自動改札の通れない青春18きっぷ、自動改札脇にあるインターホンを押して改札口コールシステムを利用します。

インターホンを押してコールセンターのオペレーターに連絡、インターホン下の台に青春18きっぷを置く→オペレーターによりきっぷの確認→オペレーターが改札機通過の案内、遠隔操作で自動改札機を開放

の手順で入場しました。
山崎駅構内は京都・大阪府境に位置しています。下りホーム上には府境を記した標識

コロナ禍にて唱えられた「都道府県を跨ぐ移動の自粛」が頭をよぎりました。
駅舎があるのはは、は、京都府乙訓郡大山崎町字大山崎小字西谷、構内の一部は大阪府三島郡島本町山崎

下りJR京都線(東海道本線)

山崎1616発 西明石行き

207系7両編成
1636着の岸辺で下車