令和5年(2023年)3月15日㈬


今春1回目の青春18きっぷ使用は東海道本線を乗り継ぎ

横浜〜熱海〜浜松〜大垣〜米原〜京都〜長岡京と乗り継ぎ長岡京に来ました。長岡京駅から700mの勝竜寺城公園に来ました。
堀に囲まれた勝竜寺城公園

勝竜寺は戦国時代の城、勝竜寺城の跡

勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)

現在の京都府長岡京市勝竜寺に南北朝時代から江戸時代初期に存在していた日本の城である。城名は付近の同名古刹(勝龍寺)に由来する。安土城に先行する「瓦・石垣・天守」を備えた近世城郭の原点として評価される。
勝龍寺城は細川忠興・ガラシャ夫妻ゆかりの城としても知られる。天正6年(1578年)8月、藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が勝龍寺城で結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしたとされている。

天正10年(1582年)、本能寺の変の際に明智光秀方が占拠し拠点とした。変から数日後の山崎の戦いで敗走した光秀は、勝龍寺城に帰城するも、敵である羽柴秀吉軍の追撃を受け城を放棄、勝龍寺城の北門から脱出し、本来の拠点である近江国坂本城へ逃走する途中で死去。翌日に明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城している。
その後の勝龍寺城は羽柴方にあまり重要視されず荒廃し、慶安2年(1649年)に完全に廃城となった。

現在 では本丸および沼田丸趾が1992年(平成4年)に勝竜寺城公園として整備され、模擬櫓などが建造された。往時の遺構としては、北門に当時の石垣の一部が残る。また当城の北東に位置する神足神社境内に土塁・空堀を復元している。 

wikipediaより引用
門の前には「明智光秀公三女お玉お輿入れの城」の石碑



門を潜ると勝竜寺城公園管理棟、内部は展示室になっていて入場無料
公園内には細川忠興と明智光秀の三女お玉(ガラシャ)の像
左は細川忠興・ガラシャ像、ミギは勝竜寺城公園管理棟
復元された北東隅櫓

勝竜寺の石造物

石垣などに転用された多くの石造物が並んでいます。

管理棟に入場
館内

山崎の戦いの後、秀吉の追撃を受けて光秀が脱出した北門付近から見た眺め、北東隅櫓が見えます。
勝竜寺城公園を出てJR京都線(東海道本線)の線路を挟んだ向かいにある神足商店街
勝竜寺城公園から500m離れた神足ふれあい町家

江戸時代末期築の商家・旧石田家を利用したサロン・情報及び観光土産コーナー

旧石田家主屋は登録有形文化財

神足ふれあい町家にて購入

勝竜寺城の御城印

今回の長岡京訪問はこの御城印購入のためでした。

時間があれば訪れたかった長岡天満宮は1.6km先、また次の機会に


再び長岡京駅へ、下り京都線(東海道本線)

787T   長岡京1520発 網干行き

わずかひと駅、乗車時間4分

1524着の山崎で下車、改札口に行くと有人窓口はカーテンが閉められて駅員不在、青春18きっぷ使用なので自動改札は通れません。、自動改札脇にあるインターホンを押して改札口コールシステムを利用します。

インターホンを押してコールセンターのオペレーターに連絡、インターホン下の台に青春18きっぷを置く→オペレーターによりきっぷの確認→オペレーターが改札機通過の案内、遠隔操作で自動改札機を開放

の手順で下車しました。
レトロな雰囲気の山崎駅駅舎は 1927年(昭和2年)に竣工した木造平屋建て

山崎駅駅前にある寺院、妙喜庵 

境内にある茶室「待庵」は国宝、千利休が建てたと伝わります。

境内の見学には1ヶ月前までに往復ハガキでの予約が必要 、この日は門が閉ざされていました。

門前には「文化財保護」の立札

こちらも門前にある妙喜庵の説明板
こちらも山崎駅駅前、離宮八幡宮

江戸時代築の東門を潜り境内へ

門の背後には西に傾いてきた太陽、逆光です。
離宮八幡宮東門は大山崎町指定文化財
鳥居の先に見えるのは中門(四脚門)。昭和時代初期の再建。 本邦製油発祥地碑

*離宮八幡宮

京都府乙訓郡大山崎町にある神社。石清水八幡宮の元宮であるとされている。また、製油発祥の地である。

社伝によると、貞観元年(859年)、清和天皇により当地に「石清水八幡宮」として建立、しかし、翌貞観2年(860年)にも当地から淀川の対岸にある男山に八幡神を遷宮させて新たに「石清水八幡宮」を建立、。男山にある「石清水八幡宮」は別名を「男山八幡宮」、当社は別名「大山崎石清水八幡宮」と呼ばれたまた、かってこの地には嵯峨天皇の離宮・「河陽(かや)離宮」があった所でもあるので、別名として「離宮八幡宮」ともいった。 
また、貞観年間(859年 - 877年)に当宮の神官が神示を受けて「長木」(てこを応用した搾油器)を発明して荏胡麻(えごま)油の製造が始まったことから、日本における製油発祥の地とされている。この製法はやがて全国に広まると、当社は朝廷より「油祖」の名を賜った。その後、鎌倉時代に大山崎油座の制度ができると当社は全国の荏胡麻油の販売権を独占し、諸国の油商人は当社の許状無しには油を扱うことはできなくなった。 しかし、戦国時代には織田信長などが楽市・楽座の政策をとり、当社の許可を得ないで勝手に油を扱う商人が増えると当宮の収入は減り、経済的打撃を受けた。 
江戸時代には男山の石清水八幡宮と「石清水八幡宮」の社号を巡っての争いが起きて当社は敗北、元禄10年(1697年)9月18日の裁許状で「石清水八幡宮」の名称の使用を禁止された。以降、当社は離宮八幡宮を正式の名称とした。 

wikipediaより引用

油祖像

ここ離宮八幡宮は製油発祥の地
油祖像の横には 「本邦製油発祥地」の地の由来を記した説明板
登録有形文化財、昭和初期再建の中門(四脚門) - 四脚門。
中門(四脚門)の先に見えるのは拝殿
国登録有形文化財の拝殿にお参りします。 -

この拝殿は1879年(明治12年)再建。1929年(昭和4年)改築。 


社務所にて御朱印を頂きました。
離宮八幡宮社務所で販売されている山崎城の御城印も購入、今回の山崎訪問はこの御城印購入のためでした。
「本邦製油発祥地」の地の碑

大山崎町指定有形文化財の惣門(南門)は江戸時代築、





再び山崎駅前へ、妙喜庵の前には大山崎町観光案内


山崎は羽柴秀吉と明智光秀が戦った地

JR京都線の踏切を渡ると天王山の入口

天下分け目の天王山を登ります。