3月2日㈭

山北駅から「山登り」、河村城跡の河村城歴史公園に来ました。

河村城跡の立地する城山の頂上、本城郭と呼ばれる場所

コチラの記事の続きです。

*河村城 

神奈川県の足柄上郡山北町にあった城。 平安時代末期に築城され、相模・甲斐・駿河三国の境界線が交差する要衝の近くに築かれた山城である。 
平安時代末期に藤原秀郷の流れをくむ河村秀高によって築かれたとされる。 建武の新政・南北朝時代に入ると、河村氏は新田氏に協力し南朝方につき、北朝方の足利尊氏と対峙したといわれ、1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)から2年間、河村秀国・河村秀経らは新田義興・脇屋義治とともこの城に立てこもり、畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃をしのいだとされる。しかし、南原の戦いで敗れ落城し河村一族の多くは討死し、新田義興・脇屋義治は中川城を経て甲州に逃れたとされる。 その後は、この城は畠山国清や関東管領上杉憲実を経て、足利持氏の属将、大森憲頼(氏頼の弟)の支配するところとなる。 戦国時代に入ると後北条氏の支配を受けるようになった。元亀年間(1570年(元亀元年) - 1573年(天正元年))には甲斐国の武田信玄の侵攻の際に補強され、その後、周辺の諸城とともに後北条氏と武田氏の間で争奪合戦があったとされる。 1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で、この城は落城し廃城となった。 現在では 河村城址歴史公園として整備されており、本丸やその他の郭、畝掘などの遺構が見られるが、一部の遺構は山林化して解りづらい。また公園整備が中途半端に放置されていたり、土橋にコンクリートを用いているなど、景観を損ねているとする意見がある。

wikipeiaより引用
河村城の由来を説明するプレート?らしきもの

風雪に晒されて字が摩耗したのか、あまりよく読めません、





地面にはコンクリートの地形図、その先には祠と石碑


河村城跡の石碑
先ほど登ってきた道を上から見下ろします。

堀切に架かる木橋


木橋を渡り本城郭から蔵楽へ
蔵郭から近藤郭の間にある空堀(障子堀)を橋でわたります。

この橋は
コンクリート製の橋でした。

どうやらこの橋が、wikipediaに記されていた「土橋にコンクリートを用いているなど、景観を損ねているとする意見がある」、のようです。

橋というよりはダムや堤防に見えなくもないような



広い公園には誰もいません。

ビューポイントの場所、足柄平野や相模湾が見えます。

説明板、視界の先は、先週に訪れた沼田城跡や岩原城跡が見えるとのこと

帰路は山道ではなくクルマが通れる道を歩きます。山北駅へは遠回り

公園利用者駐車場付近から見た河村城跡

坂道を下っていきます。

この辺りで急に目が痒くなりクシャミ連発、かなり花粉が飛んでいるようです。

眼下には山北の町、坂道を降りる途中、すれ違う歩行者もクルマもゼロ
「Photo  Spot」なる看板

ようやく山を降りました。
山北駅へはあと少し
山北駅に到着、昼過ぎの駅前は静か

2542G   山北1253発 国府津行き

に乗車
1301着の松田で下車

松田では平日の日中にしては乗降客が多い

先ほどの静かだった山北とは対象的
松田駅北口前には臨時駐車時も設置、観光客らしき人達も多い


松田駅北口から徒歩13分の松田ハーブガーデンでは「まつだ桜まつり」が開催中でした。

そちらには行かず、小田急新松田駅へ向かいます。
松田駅の駅舎は2箇所、こちらは小田急の新松田駅と道路を挟んだ向かいにある南口

小田急新松田駅

新松田で乗り降りするのは5年ぶり、平成最後の日でした。
*2019年4月30日、小田急全線乗車、この日は新松田に下車しましたが記事内には記述されていませんでした。




新松田1317発 急行 小田原行き

8000系10両編成

久しぶりの「昭和製の電車」
終点の小田原1328着


小田原で所要を済ませ
日が暮れたあと、この東海道本線に乗り帰途に
大船からは乗換える根岸線は一時運転見合わせ

しばらく足止めされました。

*3月2日17時25分頃JR根岸線の根岸─磯子間の架線にビニールと見られる支障物があり、近くを走っていた南浦和発大船行きの普通電車が停車した。 JR東日本によると、影響で京浜東北・根岸線は上下線17本が運休、18時55分頃に運転再開、原因は強風のためとみられてる。