3月2日㈭

当ブログ毎度おなじみ?木曜日のお出かけです。

根岸線に乗り大船へ、大船からは下り東海道本線

1535E   大船900発 小田原行き

は車両点検の影響で7分程遅れて到着、発車
定時では9時29着の国府津で下車、遅れのため936頃に到着
国府津から乗る御殿場線はJA東海、ICカードではJR東日本のSuicaエリアからエリアからTOICAエリアにはまたがって利用できません。一旦改札を出て


駅周辺の様子
再び駅構内へ

2535E   国府津1010発 山北行き

313系2両編成 

に乗車
御殿場線は一昨年12月以来の乗車
 
*2021年12月、国府津から御殿場線を経由して吉原へ、岳南電車に乗りに行きました。


オールロングシートでした。
久しぶりに短距離での紙のきっぷを購入

車内は空いていたので車窓を撮影、富士山が見えます

終点の山北1042着
山北駅北口駅舎、山北は乗車券の発売のみの簡易委託駅、駅前は人通りも少なく静か

山北で下車するのは3年ぶり

*2020年3月に乗った御殿場線、この頃は新型コロナで大騒ぎしていた頃、「不要不急の外出の自粛」が唱えられていました。 


山北駅北口前の

やまきた観光案内お休み処

では


河村城と河村新城の御城印が販売されてます。2枚とも購入

山北を訪れたのは御城印集めのためです。

山北駅を跨ぐ陸橋を渡り南口へ、向こうに見えるのは河村城跡のある城山です。

河村城跡の入口は山北駅から徒歩10分、

河村新城跡は隣駅の谷峨駅から約3km、訪れには厳しいのでパス


陸橋上から見た山北駅

D52 70が保存展示されている山北鉄道公園へ、こちらも3年ぶり

公園内には誰もいません。

山北鉄道公園から河村城跡へはこのような道案内の表示

御城印を購入したならば城跡を訪れねば

道を進むと段々と山道に

河村城跡入口の石碑がありました。さらに進み

*河村城 

神奈川県の足柄上郡山北町にあった城。 平安時代末期に築城され、相模・甲斐・駿河三国の境界線が交差する要衝の近くに築かれた山城である。 
平安時代末期に藤原秀郷の流れをくむ河村秀高によって築かれたとされる。 建武の新政・南北朝時代に入ると、河村氏は新田氏に協力し南朝方につき、北朝方の足利尊氏と対峙したといわれ、1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)から2年間、河村秀国・河村秀経らは新田義興・脇屋義治とともこの城に立てこもり、畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃をしのいだとされる。しかし、南原の戦いで敗れ落城し河村一族の多くは討死し、新田義興・脇屋義治は中川城を経て甲州に逃れたとされる。 その後は、この城は畠山国清や関東管領上杉憲実を経て、足利持氏の属将、大森憲頼(氏頼の弟)の支配するところとなる。 戦国時代に入ると後北条氏の支配を受けるようになった。元亀年間(1570年(元亀元年) - 1573年(天正元年))には甲斐国の武田信玄の侵攻の際に補強され、その後、周辺の諸城とともに後北条氏と武田氏の間で争奪合戦があったとされる。 1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で、この城は落城し廃城となった。 現在では 河村城址歴史公園として整備されており、本丸やその他の郭、畝掘などの遺構が見られるが、一部の遺構は山林化して解りづらい。また公園整備が中途半端に放置されていたり、土橋にコンクリートを用いているなど、景観を損ねているとする意見がある。

wikipediaより引用

この先は河村城歴史公園

コンクリート舗装の急な坂道

平日の午前、誰も歩いていません。茂みから野生動物が出てきそうでちょっと怖い


やがてコンクリート舗装の道が途切れれました。

山城とはこんな険しい道であろうか。
急な階段が見えてきました。

この角度、かなりキツイ!息を切らしながら登りました。


ようやく登りました。城跡らしい地形

頂上?は近い
谷のような堀には立て看板

畝堀(うねぼり)

敵の侵入を困難にしようと堀底を畝で区切ったもの
ようやくつきました。ここは本城郭と呼ばれる場所、誰もいません。