
2月23日㈭ 天皇誕生日㈷
ときわ路パス 2,180円 を使用し真岡鐵道に乗車、終点の茂木に来ました。
茂木では茂木城跡の城山公園を訪れた後、再び真岡鐵道に乗車
212D 茂木1053発 真岡行き
モオカ14−3
コチラの記事の続きです。
*2020年11月、ときわ路パスを使用し、関東鉄道常総線、真岡鐵道に乗車、今回の記事とかなり内容が被ります。

茂木駅にはSLもおか の蒸気機関車の方向転換に使用される転車台

SLもおか はC12 66の定期検査のため2023年1月から3月にかけて運休

終点の真岡1132着

真岡駅にはSLもおか に使用される50系客車が停車中、日本の鉄道では貴重となってしまった客車列車
真岡駅の茂木方面行きのホームから撮影

50系客車を撮影していると

ちょうど
117 真岡1142発 茂木行き が来ました。
これから向かう場所は真岡駅と北真岡駅の中間にあたる距離にある場所、やや北真岡のほうが近い
フリーきっぷの利点を活かして、ひと区間だけ乗車

1142着の北真岡で下車

北真岡は1面1線、駅舎はなくホーム上の待合室のみの無人駅

駅を出て

北真岡駅から約700m
久保記念観光文化交流館に到着
*久保記念観光文化交流館(くぼきねんかんこうぶんかこうりゅうかん)は、栃木県真岡市荒町にある観光施設。愛称は「さだじろう記念館」で、美術評論家の久保貞次郎(1909 - 1996)邸宅跡を施設。
久保記念観光文化交流館のある地域は3寺が集まる門前町で、大正時代から昭和時代にかけては料亭や芸者置屋のある賑やかな場所であった。久保記念観光文化交流館となる建物群は「久保邸」と呼ばれていたが、久保家や関係者が真岡市に保存を前提として譲渡することを申し出、市は華やかなりし頃の建物を次世代に継承するとともに、観光文化拠点施設とすることを決定し、久保記念観光文化交流館として整備・公開した。2014年10月23日開館。
wikipediaより引用


日本銀行宇都宮代理店真岡出張所真岡支金庫として利用されていた建物で、1907年(明治40年)の建築。1階は観光案内所と真岡木綿展示室、観光サロンがある。一枚板のカウンターや箪笥階段などが当時のまま残る。2階は久保貞次郎の資料展示を行う[「久保資料室」がある[6]。久保貞次郎の紹介や、久保の残した書簡・写真・原稿などを展示する
wikipediaより引用


コチラは入場無料、内部は撮影禁止でした。

久保記念観光文化交流館内の観光物産館にて

真岡城崎御城印を購入、今回の真岡訪問は御城印目当てでした。
真岡駅までは1.2kmを歩きます。

その途上、久保記念観光文化交流館から0.6kmの位置にあるのが真岡城跡の城山公園
*真岡城(もおかじょう)は、現在の栃木県真岡市台町にあった中世の日本の城である。宇都宮氏の家臣であった芳賀氏の居城であった。別称、芳賀城ともいう。
真岡城の起源には諸説あるが、鎌倉時代末期の貞治元年(1362年)に芳賀高貞が築城して御前城から移転し、戦国時代の天正5年(1577年)になって、芳賀高継が北条氏の侵攻に備えて堅固な城郭としたとの説が有力とされる。 1597年(慶長2年)に宇都宮氏が豊臣秀吉によって改易されると同時に廃城となった。江戸時代には遺構の一部が徳川幕府の代官所として利用された。 現在の状況 編集 真岡城跡は現在、真岡市立真岡小学校ならびに城山公園となっている。城山公園には土塁や堀の痕跡が見られる。また、郭の周囲を囲んでいた腰曲輪は比較的良好な形状で保たれている。城山公園付近に四の郭が、小学校付近に三の郭、二の郭、本郭が所在していた。三の郭、二の郭、本郭の各郭間は空堀で仕切られていたが、現在、空堀はなく土塁のみが残る。
wikipediaより引用

に乗車し下館1349着