◆勉強会 15:00-18:30 (開場14:30 着席14:55)
◆懇親会 19:00-21:30ごろ
会場:◆勉強会 致知出版社 社内道場(地下1回):渋谷区神宮前4丁目24番9号
今回は先日亡くなられた
渡部昇一先生を偲んで
昇一塾メンバーと共に個別に先生の著書をもう1度見直す事をしながら。致知に連載もされていた渡部昇一先生
知的生活の方法を振り返ると
未だに渡部先生のカントについては、、書籍の中で「カントの様に朝5時に起きろ」というのと、カントの純粋性理性批判を読んでも何の事やら・・?カント君?という理解しかできない自分ですが、、
哲学は数学と科学に支えられながら理性を少しずつ解き明かしていこう
人には知性と感性がある。そして、情報を受け取るのが感性であり、感性が受け取ったものを処理するのが知性である。また、この感性によって受け取るものが現象である。そして、現象によって人間の世界は組み立てられる。 この現象というものを人間の感性は何を基準にして受け取るのか。その受け取り方をきめるものは何か。それが空間と時間
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「神」はすべての原因でなければならない。ところが「現象」の原因は人間にある。もし、「神」が人間の知ることが出来る「現象」なら、それはもはや「神」ではなくなってしまう
ところから「神のことは考えることはできても知ることはできない」
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カントは神に否定的な考えの哲学者と捉えられ神から人間への見方にしたのがコペルニクス的転回
なのでしょうか?
端的に言うならば「興味を持ち続けて読み続ける」ことの大切さ。
それは、自分にはカントではないものの、サルトル、キルケゴールといった実存系の人達の強烈な思想に興味を惹かれる所があり、書籍に興味を持つきっかけとしてはいろいろ、マイナスな事が続いた頃に なぜ人は生きて頑張らねばいけないのか。
前向きにならなければいけないのか?
を考えている頃に出会った本が興味を持つきっかけだったのかなと。たまたまそれが自宅にあったのがカントもあり、埴谷ゆたかに安倍公房もありながら、たまたま目にした(してしまった)嘔吐が強烈な印象を与えてのめりこむきっかけだったのかもしれません。
カントやハイデガーは難しすぎて理解不能領域に入っていたのですが、実存系に染まる事はなくても興味を持って読んでいたというのが先生曰くの繰り返し繰り返し夢中になって読む事の大切さなのかなと思いますと共に、答えがありそうでない所に理解や解釈が他の人と異なる点が絶対的な答えを出す事が出来なくても深い理解が出来るのではないか?と思います。
周囲の存在を否定して自己、自立の考えに立つ。
よく言われていたのが実存系はマイナスだからダメ、暗すぎる、神を否定している
という事に対し
人は実存的な生きかたしかできない限定的な存在であることを自覚し、実存的に生きるしかない。生きている以上 いろいろな困難な壁にぶつかる。支配者の言う通りにするのではなく、一人で決断し、一人で飛んで超えるしかない。この決断するのは誰か?
私でしかない。私が飛ぶぞと強く意志を持って、壁を乗り越えるしか、壁を乗り越える手段は無い。
人間の運命は、人間の手中にある。
というアンガージュマンマンの思想やニーチェ曰くの超人の考えなどなど。。
解釈の仕方によれば、自立した人生を送れ!とも解釈でき、いろいろと深いなぁと。
「(傍観者)レイモン・アロンとともに正しくあるよりも、(アガンジュマン)サルトルとともに間違った方がいい」
唯一、大学のゼミで学んだ内容でありました。
あなたは繰りかえして読む本を何冊ぐらい持っているだろうか。それはどんな本だろうか。それがわかれば、あなたがどんな人かよくわかる。
しかしあなたの古典がないならば、あなたはいくら本を広く、多く読んでも私は読書家とは考えたくない。知的生活の方法で記載されているのは「繰り返して読むに耐える書物」。
だからこそ、千年後二千年後まで読み継がれていくものなのだ。つまり、現在発表されている書物の中にも、何パーセントかは、古典の本質を秘めている書物があるということ。新しい本でもいいのだ。それが千年後も残っていれば古典になるのだ。何度でも繰り替えして読みたい本、実際何度も読み返している本、何度読んでも感動を新たにする本、要するに愛読書こそが私たちにとっての古典だということ。
「知的作業、知的生産で最高に充実した成果を挙げるためには、絶対に途中で中断してはならない」の御言葉を忘れずに。
個人的には小野田さんとの対談の話が印象的でした。