リッチー・ヴァレンスと共に飛行機事故で亡くなった「バディ・ホリー」、彼は1936年生まれの米国人シンガーソングライターです。
1955年エルビス・プレスリーとの出会いを機に、ロックンロールに傾倒、翌1956年「バディ・ホリー&ザ・クリケッツ」を結成しました。
ギター2本、ベース、ドラムという4人編成で、立って演奏するというスタイルは、その後のバンド編成の基本的な形となりました。
ポール・マッカートニーも、「ビートルズのスタイルは、クリケッツのコピーから始まった」と言っています。
1957年「ザットル・ビー・ザ・ディ」をリリースしてデビューしました。
続けて、「イッツ・ソー・イージー」「ペギー・スー」と、ヒット曲を連発していきました。
しかし、1959年2月3日、リッチー・ヴァレンスと共に乗ったチャーター機が墜落、還らぬ人となりました。
バディ・ホリー享年22歳という若さでした。
クリケッツには逸話があって、黒人エンターティナーの殿堂として知られる「アポロ・シアター」に出演したことがありました。
プロモーターがクリケッツの音だけを聴いて、黒人グループだと勘違いしたのが、そもそもの始まりなのですが、当日シアターにやって来た白人の彼らを見て仰天、しかし、すでに時遅く、彼らはステージに立つことになりました。
騒然となった観客達でしたが、彼らの演奏が始まるとすぐに熱狂し、大好評のうちにステージは終了したのでした。
結果、バディ・ホリー&ザ・クリケッツは、アポロ・シアターに出演した最初の白人ミュージシャンとなりました。
ローリング・ストーンズのミック・ジャガーも、アルバムジャケットの写真を見るまでは、クリケッツは黒人グループだと思っていたそうです。
また、ビートルズがまだアマチュアの頃、バディ・ホリーの楽曲のカバー曲をたくさんレパートリーとして持っていました。
しかし、プロになってから公式にカバーしたのは「ワーズ・オブ・ラヴ」の1曲のみです。
これは、「ホリーに敬意を表するために、あえてカバーはしない」という取り決めがあったのだとか。
エルビス・プレスリーも、同じ理由で、カバーした曲はありません。
ちなみに、ホリーのリリースした「ワーズ・オブ・ラヴ」は、ヒットとまではいかなかったようです。
バディ・ホリーの歌唱方法は、ヒーカップ唱法と呼ばれていて、しゃくり上げるような裏声で、独特のアクセントをかもし出す唄い方で、その後、日本では、坂本九さんによって受け継がれました。
奇しくも、坂本九さんもホリー同様、飛行機事故で散りました。
ロックンロールの真の天才「バディ・ホリー」は、フェンダー・ストラトキャスターを愛用していました。
その彼の影響を受けたミュージシャンには、ビートルズ、ストーンズの他に、エルビス・コステロ、エリック・クラプトン、ロリー・ギャラガー、ボブ・ディランなど大勢いますが、そのほとんどがストラトを弾いています。
ホリーの墓石には、愛用したストラトの形が刻まれています。
つづく