☆車椅子父ちゃんの人生劇場☆~只今入院中!~ -23ページ目

闘病記 37話 - 「脇腹の痙攣」

闘病記(改正版)の目次はコチラから

 

 

2008年 6月頃


24時間近くおしっこが出てなくて
膀胱も空の状況で泌尿器科で有名な
総合病院へ搬送され、そこへ家族も

駆けつけた。


ここでは、検温や採血などの
一通りの検査のあと点滴が始まった。


そうしている間にも脇腹の痛みは
ひどくなり、左右の脇腹に別れて
ピクピクと痙攣していた。

 

 

強烈な痛みが続くので、何度も
「まだですか?」と尋ねていたが

前の人の手術が長引いるとのことで
順番がなかなか回ってこない。


相変わらずおしっこは出ない。


即手術ということでこちらの
病院に来たのだが、結局3時間
以上待たされた。

 

 

やっと呼ばれて手術室に入る所で、

確認のため名前を聞かれた。

僕は思わず「木村拓哉です」と
ボケをかました。


すると、看護婦さんは
「はい、木村さん・・・えっ!」と

一瞬わからなかったみたいで、
他の看護婦さんたちのツッコミ(?)

もあり、笑いで始まった。
(影では馬鹿にされてたと思う)


なんでこんな時にくだらないボケを
言ったのか自分でも解らないが、
手術まえの恐怖心を和らげようと、

脳が働いたのかもしれない。


手術室では、女性の出産時のように
下半身丸出しにされ、超恥ずかしい
格好だったが、早く処置をして欲し
い思いの方が強かった。



手術室特有の明るすぎる照明に
スイッチが入り手術が始まった。

 


38話 - 「腎臓の病気」へつづく

闘病記 36話 - 「おしっこが出ない」

闘病記(改正版)の目次はコチラから

 

 

2008年 6月頃

 

 

「今日はおしっこの量(回数)が
  少ないんじゃないですか?」


と看護婦から言われて、
そう言えばそうかなと
少しだけ気になっていた。


その時はわき腹が少し痛む程度
だったので普通に流動食(夕食)
を流してもらいテレビを見て
眠りについた。

 

 

次の朝、強烈な腹痛(右わき腹)
によって目が覚めたので
感じて看護婦を呼んだ。


「この辺が痛いんだけどここは
何があるかな?」と右わき腹の上
の方を触りながら尋ねた。


「う~ん、膵臓? 腎臓?」と
話しているうちにあることに
気付いた。

 

そういえば昨日の午後から
おしっこがでてない。
 

かれこれ20時間近くになるので、
そのことを看護婦に告げた。


それはいけないということで導尿し
てみようということになった。
 

尿道から膀胱にかけて
管を通すアレだ。

少し慣れたとはいえ、
やはり痛いものだ。

 


我慢して処置をしてもらっていたが、
導尿してもおしっこが出ない。

 


何故だということで、男性看護師が
ちょっと吸引してみようと言って
吸引器で吸い出してもおしっこは
殆んどでなかった。

 

その代わりに出てきたのがなんと、
小さな石のような粒が2個。


至急エコーで検査したら、
膀胱にはおしっこがなくて
空っぽだった。

 


主治医が泌尿器科がある病院に
連絡すると、すぐに連れてくる
ように言われたらしく、慌てて
介護タクシーで搬送された。


37話 - 「脇腹の痙攣」へつづく

 

闘病記 35話 - 「お腹に穴をあける」

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2007年 冬

 

 

月に1回は40度前後の発熱が
発作的に出ていた。


この頃は元同じ病室の亡くなった
杉谷くんのことは考えないように
していた。

 

考えるといつまでたっても悲しいし
自分のこともネガティブに考えて
しまうので封印した。

 


口からは食べることも飲むことも
できないので、食事は流動食を
鼻から管を通し胃に流し込んでいた。

 

 

鼻の管は衛生上、毎週交換する。


交換するたびにきつい思いを
していたので、胃に穴を開けて
直接管を通す「胃ろう」に変え
てもらった。


変えた直後は、切ったお腹の傷が
かなり痛くて「胃ろう」に変えたこと

を後悔するも、

 

2~3週間程で痛みは消えたので
やはり変えて正解だった。

 

そして、
今後やってくる新たな病魔には

全く気づかず日々を過ごしていた。

 

 

36話 - 「おしっこが出ない」へつづく

明けましておめでとうございます!

明けましておめでとうございます^^

 

今年中に退院という目標を掲げ

いろんな分野で、邁進していきます!

 

今年もよろしく☆彡

闘病記 34話 - 「心のダメージ」

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2007年 秋

 


4ヶ月ほど経って4階の病棟に
慣れてきた頃、いつものように
もと僕がいた5階の看護婦さんが
顔を見に来てくれた。
(時々来てくれていたのだ)

 


自分の体調の事など話していて、
話の流れの中で杉谷君(仮名)は
元気か聞いてみた。


そこで、帰ってきた言葉は・・・


「あー。。。杉谷君ねー・・・

  ・・・実は

    このあいだ亡くなったんよ」



あまりの驚きに声も出ず
頭の中が凍り付いた。

 

元気に回復していると思っていたのに
亡くなったなんて考えられなかった。


この日の夜はほとんど眠れなかった。


頭の中では家族団欒笑顔で会話する
杉谷君の顔が何度も思い出され、

自分も突然死ぬんではないかという
恐怖も渦巻いた。

 


一週間くらい頭の中は
その事でいっぱいだった。

 

 

35話 - 「お腹に穴をあける」へつづく

 

 

 

 

闘病記 33話 - 「転棟」

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2007年6月


5階病棟から4階病棟に引っ越した。
 
慣れてきた病室と看護師が
全部変わることになった。
 
 
4階の看護師は僕の身体の状態を
殆んど解っていない感じだった。

 

僕は同じ病院内なので、
きちんと引き継がれていて
身体の状態などだいたい
把握しているものだと思っていたが、
そうでもないらしい。

 

病院は変わらないのに
病棟が1フロア違うだけで、
すごく寂しく感じた。

 

まるで別の病院に来た
みたいだった。

 

 


この時は、この病棟に5年近くも
お世話になる事など思いもしなかった。


身体の状況は、かろうじて自分で
車椅子をゆっくりこげる程度で、
スピーチカニューレで、
声もうまく出せるようになっていた。

 


リハビリがあるときは、
2階のリハビリフロアーから
帰ってくるときに、5階に寄り道して
患者で大学生の杉谷くん(仮名)や
看護師に会いに行っていた。

 


4階には、
まだ慣れていなかったから。。。

 


34話 - 「心のダメージ」へつづく

闘病記 32話 - 「携帯(ガラケー)」

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2007年1月~5月


このころから喉に開けた穴の部分
にバルブをつけて声が出せる
スピーチカニューレが徐々に
馴染んできて、日中は声が出して
話せるようになった。


なので起きている間はバルブを
はめたままにしてもらった。


※イメージ画像

 

声が出せるようになったので、
携帯電話を持つようにした。
(スマホはまだ世に出てない)


家族や友人と電話やメールが
できるようになった。


とは言っても、
手があまり上がらないし
指の麻痺もあったので、
電話番号を押すだけでも
結構大変だったし、

メールだと更に苦労した。


1ヶ月ほどで慣れてきたので、
入院前にやっていた株取引を
携帯でするようになった。

 

あまり儲かってなかったが
リハビリにはなったと思います。


33話 - 「転棟」へつづく

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闘病記 31話 - 「拷問のような日々」

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2007年1月~5月


化学療法が2週間に渡り行われた。
これが最後の化学治療らしい。

 

この頃から発熱(40度前後)の
発作の量が増えてきた。

 

その後もちょくちょく熱が出る
ようになり辛い時期だった。

 

 

春に向け、少し暖かくなると、
体中に赤い発疹ができて

すごく痒い。

 

皮膚科の病院から往診に来てもらい、
疥癬(かいせん)と診断された。


ダニが寄生するこの疥癬は、
人にうつるという事でカーテンを閉め、
隔離された状態が2週間ほど続いた。

 

とにかく痒い。


治療の方法は飲み薬と塗り薬の併用
だったが、この塗り薬が体にしみて、
塗った直後から5分~10分間ほど
凄まじい痛みを感じた。


例えるなら、カッターで体中無数の
傷を入れられてその上からレモン汁
を塗られている感じで、ギャーーッ!

と大声で悲鳴をあげ続けた。

 

まるで拷問にあっているような感じだ。

 

 ※イメージ画像

 

かんべんしてくれ~ 


もう、二度とこんな体験はしたくない。

 


32話 - 「携帯(ガラケー)」へつづく

 

 

闘病記 30話 - 「淋しさが身にしみる」

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2006年12月以降

 

 

4人部屋ながらも大学生の杉谷君と
僕の2人だけの部屋。

 

杉谷君にはいつも両親のどちらかが
付いて看病にあたっていた。

 

午後2時頃から7時頃まで家族の
誰かがそばにいる光景は、
微笑ましくて、羨ましくも感じた。


 


うちの妻は、たまにしか来ないし、
子供たちにも1ヶ月に1回ぐらいしか
会えなかったので寂しかったのだ。


(子供は小学校・保育園に行っている
から仕方が無いにしろ妻は働いてもい
ないに家にいて何しているんだ!)


と、内心ぼやいていた(笑)

 

 

杉谷君はクリスマスには家族そろって
病室で簡素なクリスマスパーティーを
して年末年始には病院から外泊許可
をもらい、自宅で過ごしたりしていた。

 


一方僕は、今年の年末年始もまた
病院のベットで過ごす事になった。

 


2007年の元旦には 

 

「来年の正月には退院して
   家で家族と過ごせますように」

 

と、天に祈った。

 


31話 - 「拷問のような日々」へつづく

 

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闘病記 29話 - 「声を出して笑いたい」

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2006年10月以降

 


同部屋の杉谷君は、身体は麻痺で
動けないけれど元気だった。

 

両親や妹とよく会話していたし、
お笑い番組を観て笑ったりもしていた。


笑ったり会話をする事は、
体にとてもいいことであることは
以前から聞いていたので自分も
お笑い番組を積極的に観るようにした。

 

 

ただ、スピーチカニューレにしている
時間が短いので笑う時はニヤリと
するだけで、声をあげて笑えない。

 

杉谷君のように、スピーチカニューレ
を24時間付けた状態でいられるよう
に早くなりたいと思っていた。

 


30話 - 「淋しさが身にしみる」へつづく