アビエイター
2005年日本公開 監督/マーティン・スコセッシ
出演/レオナルド・ディカプリオ、ケイト・ブランシェット
かつてはジョン・マルコヴィッチやエドワード・ノートン、ジョニー・デップやブライアン・デ・パルマ監督、ミロシュ・フォアマン監督らが諦め、さらにクリストファー・ノーラン監督もハワード・ヒューズの伝記映画の企画に乗り出していたことがあったが実現しなかった。主演はジム・キャリーが候補だった。それほどまでにハワード・ヒューズはアメリカ合衆国の航空業界の象徴だった。しかしこの時既に、98年にはレオナルド・ディカプリオが動き出している。彼が若い間にハワード・ヒューズの資料を何冊も読んできてはすっかり魅了されていった結果であった。この映画でも製作総指揮を務めている。
1905年12月24日(正式な出生証明はないという)生まれのそのハワード・ヒューズ。彼は『地獄の天使』(30、日本未公開)など15本ほどの映画をプロデュース、監督も一部こなしてきていたが、彼は映画屋ではなく飛行家(アビエイター)である。飛行機をこよなく愛する実業家だった。
しかしながら彼は映画で観てもわかるように極度の潔癖症であった。手を洗うにもそれを何回も繰り返す。人が触る食べ物には手をつけない。不特定の人が触れるドアノブにも触れない。バイ菌には非常に抵抗がある彼はそんな強迫観念が強くのしかかり、繰り返す行動を強迫行為とみなすならばこれは強迫神経症である。或いは強迫神経障害とも呼ばれる症状だが、ハワード・ヒューズの場合は幼少時における母親の過度な身体検査或いは過干渉が原因と思われているという。
ジャック・ニコルソンが演じる『恋愛小説家』(98)では主人公がいつも嫌われごとをいうのがよくわからなかったが、これも強迫神経症という。リドリー・スコット監督の『マッチスティック・メン』(03)ではニコラス・ケイジが主人公を演じるがこれも潔癖症だった。これは主人公がのっけから症状を露わにする。いずれもドラマやサスペンスで、物語をしかし中心に置いており、あまり病状を表現しているとは思わない。しかしこの『アビエイター』はレオ演じるハワード・ヒューズという人物を描くために、かなり冒頭から強迫神経症による症状の表れを事細かに体現し、最後には次第に悪化していくように話は展開されていく作品である。上映時間2時間50分。
ハワード・ヒューズの父親が石油掘削ドリルの特許を得たためにヒューズ家に大財産が転がり込む。やがて両親に死なれて遺産を相続し、ハワードは「全米一の大富豪」と呼ばれるまでになる。16歳~18歳の時である。1927年の頃に夢だった映画製作に着手、製作者として(ノンクレジット)『暴力団』(28)が完成し上映、第1回アカデミー賞作品賞ノミネートを受ける。有名なのは『地獄の天使』で『アビエイター』本作でもその撮影風景が再現されている。ハワードはこの映画で監督も務めている。この映画は最初はサイレント映画だった。しかし世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』(27年製作、30年日本公開)が大ヒットし、ハワードもこれに追随し、撮影期間の延長の上に全編フィルム撮り直し。製作費は100万ドル超となる。しかし興行面ではこれを回収できるまでには至らなかったという。
女優たちとの交際報道で世間を騒がせたのも事実であった。キャサリン・ヘップバーン(映画ではケイト・ブランシェット)やエヴァ・ガードナー(同じくケイト・ベッキンセール)、ジーン・ハーロウなどがいた。特にキャサリン・ヘップバーンとは運命的な出会いを果たしたのではと比較的多くの著名人たちや研究家たちが口を揃えて言っているようである。
1928年にはパイロット資格を取得、映画製作と同時進行で行っていたのが飛行機の設計だった。飛行機飛行最速記録に興味を持っていたハワードは、1935年にH‐1機を開発し速度記録に挑戦した。挑戦は見事に花を咲かせ、当時の最速記録を更新した。さらに1938年、世界一周飛行の最速記録をも打ち破り、ハワードは時の人となる。この時に選んだ飛行機はロッキード社製のものだった。
航空業界にも進出。1939年には航空会社を買収し、のちにその会社の名称を「TWA」と改称する。旅客機も小型機の中では推進力が抜きん出ていたロッキード社製の「コンステレーション」を選ぶ。
しかし第二次世界大戦によって人材も飛行機開発も軍需に引き抜かれてしまう。同時にハワードは耳硬化症という難聴を患っていたために軍役に服することができなかった(ハワードは補聴器をも開発していた)。そこでハワードは戦争協力に力を注ぐことを決めた。フィード・シュートや偵察機XF‐11機を次々と開発していき(誘導ミサイルの開発ものちのハワードであった)、しまいには兵士と物資を運搬する巨大飛行艇H‐4ハーキュリーズ飛行艇を製作するも終戦のために完成が間に合わず、連合軍からはもう要らないとキャンセルされてしまう。それでもハワードは完成させた。750人の兵士を乗せることができ、両翼の長さも実に98メートルもある。1947年のことであった。そしてテスト飛行。戦争に際し、税金の無駄使いと非難されたにも関わらず。ハワードは公聴会に参席、不正行為の反証に成功したのであった。高度21メートル、飛行距離約1.6㎞。最初で最後の飛行。ハワードはこんなちょっとした記録でも満足したという。
しかしその間、1946年に偵察機XF‐11による飛行機墜落事故を起こして大怪我を自分に負う。全身火傷、骨折、頭蓋骨にヒビ。入院したが体が動くと痛む。そこでハワードは電動で起きられるベッドを発想する。痛みを和らげるためのモルヒネを多用し、のちに中毒性の少ないコデインも自分で服用したが、それと引き換えに脳に複数回にわたる飛行機事故によるショックを与え過ぎた為に強迫神経症がより露わになってきたという訳である。
ここまでわかれば映画がいかに史実に基づいているのかがよくわかる。しかしながら様々なサイトによるとこの作品に与えられた評点は比較的低めであった。この作品自体、筆者には個人的にも及第点には届いているとは思っていたが、恐らく潔癖症という理解しか行き届いておらず、逆に強迫神経症に対する理解や認知度が低かったからなのではないかと思う。
もっとも戦前からこんな症状が露わにされても理解されるべくもなく、名称も少なくとも当時から認知されていなければ、アメリカ合衆国全体としてはメディアの露出度を前提に、ハワードの生前当時と映画の制作された時期と現在とでは、断然認識度も異なってきていよう。この映画がヒットになるためには、潔癖症というよりも脳に障害を抱える強迫神経症の知識が必要ではないかと考えもしたが(ハワードが全米で自身が強迫神経症患者としても果たして有名だったかどうかは)、潔癖症にしてはちょっと症状の表れ方がおかしくないか? という疑問を多くの人が抱いたらそれはそれでこの映画は成功したかもしれなかった。製作費1億ドルにアメリカとカナダの興行収入で1億ドル。プラマイゼロ。世界ではやっと2億ドル稼いだからまだましか。
ハワード・ヒューズはのちに軍用ヘリの開発、通信衛星の開発にも関わる。彼は将来のビジネスに明け暮れる姿を見ていたのだろうか。それとも病に苦しむ姿を見たのか。未来への道。鏡の前でこれを繰り返して言うディカプリオ。その先は誰にも自分にもわからない。1976年没。70歳。