前編★戦争とは何か?【戦争をなくすにはどうしたら良いのか?】戦争論/クラウゼヴィッツ・憲法問題 | 和み雪 降る夜 

和み雪 降る夜 

「民主主義」と「愛国心」を考えるブログ
腐った政治家のせいにするのは止めよう。
無責任な国民こそが、日本の有害因子なのだから。

前編★戦争をなくすにはどうしたら良いのか?

戦争とは何か?【戦争論/クラウゼヴィッツ】

「目的と手段」戦争を防ぐ方法!!

憲法改正の本当の目的とは何か?

 

戦争体験者とは誰か?を知る

 

 「日本が平和だったのは憲法9条(平和憲法)のおかげなのか?」「朝鮮はなぜミサイルを打つのか?」「日本は戦争に巻き込まれるのか?」そして、「戦争をなくすにはどうしたら良いのか?」それらの答えを見出すためには、歴史分析が有効で、戦争の本質を知ることが欠かせない。戦争を二度と起こさないためにも、「戦争とは何か?」ということを自分の手で掘り下げて考えなければならない。他人に説得されて学ぶのではなく、自分の目的意識で知ろうとしなければ意味が無い。「戦争は終わった」「流れに任せておけばいいや」、と慢心して努力を惜しんで過去の戦争に蓋をしたら、また戦争が引き起こされる。何かを得るため必ず犠牲は必要だ。しかし、何も得られず何にも生かされなかった犠牲ほど、心虚しいものはない。死んだ日本人が守りたかったものが何か?日本人がどのような思いで散っていったのか?軍人は物言わぬ道具ではない。名前もあり家族もあり思い出もある、血の通った人間なのである。その思いを想像すれば、誇り高き軍人たちの犠牲を、まるで未来に役に立たないゴミのように、歴史に蓋をするなどと軍人の死を「踏みにじるような行為」は絶対に出来ないはずだ。私たちは日本人には、日本のために散っていった軍人たちの犠牲と、立派に生きて帰ってくれた元軍人の思いを、平和に生かす責任がある。

 

 北朝鮮問題や憲法問題に関心を寄せる人達は、“平和を維持するためにどうしたらよいのか”と真剣に悩んでいる。彼らは平和を維持したいと考えている。しかし、具体的にどのような行動をしたら良いかと言われたら考え込んでしまう。結局はテレビの著名人の意見に乗っかって、自分で考えることを諦めてしまうかもしれない。いつまでも自分の意見を持つことができないまま、他人の意見に乗っかり続けるのだろう。結局は、間違った意見に呑みこまれてゆくのだ。日本人は戦争を「知った気」になっている。それは唯一の原爆投下の被害国だからだ。だが原爆や空襲被害だけが戦争なのか?実は「日本は原爆を体験した国」という慢心が、実は「戦争を知らない日本人」を膨大に生み出してしまっている原因なのだ

 

 まずは、この太平洋戦争年表をチラッとで良いので見てほしい。クリック!【太平洋戦争年表】 

1941年に大東亜戦争(太平洋戦争という呼び名はGHQ流であり、日本流では大東亜戦争と呼ぶのが正しい)が始まってから、どれだけ多くの戦闘があったのか!驚くのではないだろうか。これを見て分かる通り、戦争は1回の攻撃で終わるものではなく、無数の繰り返しの集合体であり、その一つ一つの戦闘を命がけで戦ってきたのは、軍人だ。この年表にある一つ一つの戦闘が軍人の命であり、一つ一つが危険であり恐怖であり、愛であり、彼らの誇りだ。その一つ一つに思いがある。そのとき何が起きたのか、もし本当に戦争を知りたければ「出兵した元軍人」たちの話を聞くのが近道のはずだ

 

 ところが、「戦争体験者とは誰か?」と聞くと、多くの日本人が「原爆被害者」「空襲体験者」と答える。その答えはおかしい。正しい答えは「出兵した元軍人」である。原爆被害者や空襲被害者は、戦争に巻き込まれた被害者でしかないから、実は戦争を「なにも」知らなかったりする。むしろ、怖い思いをしたからこそ戦争の話をしたくない、思い出したくもない、戦争など知りたくもない、そうやって戦争の本質から逃げていて、実は彼らこそ戦争に蓋をして戦記すら読んでいない張本人なのだ。GHQは、本当の歴史を日本人が知ることを制限したため、日本人は戦争をほとんど何も知らない。真珠湾攻撃がアメリカに仕向けられたという真実も知らず、アジア支配が日本の生命線だったことも知らず、広島にノコノコやってきたアメリカ大統領(オバマ)を、プライドもなく大歓迎して、アメリカ家畜になった安寧

を喜んでいる。もちろん、元軍人の中にも戦争を知ろうとしない者がいる。彼らがなぜ戦争を語るのを重く口を閉ざしてしまっているのか。その理由は様々あるだろうが、敗戦後にGHQが徹底化させた日本悪というねつ造思想は、相当の圧力だったことは事実である。命をかけて戦った日本軍の指導者が、国から感謝されるでもなく処刑される。それを軍人たちがどのような思いで受け取ったのか、それを思うと胸が張り裂かれる思いである。

 

 戦争被害者が「戦争を体験した」と言っても、終戦最後のわずか半年の空襲と原爆投下の被害経験に過ぎない。実際の戦争は4年間の悲痛で恐怖の限りの戦闘が積算されており、最後の部分だけを切り取って、「これが戦争だ」、なんて単純なイメージを刷り込むのは、止めて欲しいのである。そのような人達の話を聞く時間があるのなら、軍人の話をもっと聞いてもらいたい。そこには戦争の「生の声」がある。日本の戦争においては「戦地に生きて帰ってくるな」「生きて帰ってくるのは恥」とされていたから、戦争体験者(元軍人)の生存者が少ない。士官学校で十分なトレーニングを積んだ優秀な軍人たちも、戦争後期にイソイソと赤紙で招集された軍人たちも、大半が死んでしまった。元軍人の高齢化が進み、全ての元軍人がいなくなれば、生きて帰った軍人が残してくれた戦記の中でしか知ることはできないが、自費出版などの貴重な「戦記」が消えつつあることを危惧して、これらの戦記を何とか後世に残そうと、必死に努力している人たちは、戦記を残してくれた軍人と同様に日本の誇りだ。彼らに心から敬意を払う。あなたの手元に貴重な「戦記」があるのなら、どうか後世に伝え残すべく、大切にしてほしい。そして戦争に蓋をしないでほしいのだ。

 「平和のためにどうしたら良いのか?」その行動は孤独との戦いになる。だが、歴史に蓋をすることは、命がけで戦った軍人たちを犬死させるようなものである。それはあまりに酷い。そのためには誰かの意見に乗っかるのではなく、自分の手で自分の頭で、どんなに時間がかかっても、自分自身で答えを見つけてほしいと思う。

 

 そこで、今回は、それらの答えに役に立つと思われる書籍を紹介するとともに、持論を展開していきたい。「戦争論/クラウゼヴィッツ」は、物騒なタイトルだが、内容はむしろ「戦争とは何か?」という疑問に、分析的かつ理論的な研究である。戦争を体系的に書いた本が少ない中、この本からは「平和を守るためにはどうしたら良いのか?」「北朝鮮が何を考えているのか?」の答えのヒントが見つかる。世界的に有名な軍事古典であり、執筆された時期は主にナポレオン終結後の1816年から1830年にかけてであり、著者「クラウゼヴィッツ」が陸軍大学校長として勤務している時期に書かれた。つまり軍人による軍事古典である。古い時代に書かれているのに、現代にも通じる普遍性の高い研究として各国の士官学校や研究機関で扱われている名著なので、ぜひ入手してみてほしい。

 

戦争とは何か?その答えを知る

 

 「戦争とは何か?」あなたは、この問いにどう答えるだろうか?

 

 空襲だとか原爆投下の印象が強すぎて、恐怖のあまり思考が停止してしまう人もいるのではないか?恐怖は抑止力になるが、思考の停止した恐怖は抑止力にならない。“平和を守ろう!”と言っているだけで止められるほど戦争の構造は単純ではないのだ。勇気を持って思考を動かし、「戦争とは何か?」という本質に向き合ってほしい。

 

 戦争とは、ひとつの「外交手段」である。まず先に、ある「政治的な目的」(自分たちの意思を相手に強要する)があって、相手の意思を尊重しない「政治的な目的」を強要するために戦争を起こす。常に政治的な動機によって「のみ」引き起こされるのであって、戦争が引き起こされる前の国家活動と何の関係もなく、切り離されたところで偶発的に勃発するものではない。当然にして、戦争は政治という指導的な知恵の支配下に置かれているので、どんなに戦争がエスカレートしているように見えても、あるいその戦争の形状が変化しても、政治的な目的が全く消滅することはない。常に「政治的な外交手段」なのである。

 

 相手への暴力(相手を痛めつける、殺す)それ自体が「目的」ではないために、押し付けたい「目的」が大きければ大きいほど軍事規模は拡大し、逆に小さな「目的」の場合は、軍事規模も縮小する。とても分かりやすい。その「政治的な目的」のために政府は戦略(方針)を練って、それを達成するための大規模な軍隊が編成されて、これを機能的に動かす。軍が編成され、戦術(作戦)が練られる。こういう無数の戦闘の繰り返しで、戦争は形成される。戦争は戦闘の集合体だ。これを実行する軍隊を管理するのは、卓越されたシステム設計センスと優秀な管理能力が必要となる。これが非常に難しくて、統制システムがマトモに機能しなければ大規模な組織を正常に動かすことなど絶対にできない。指揮系統の乱れで一気に形成逆転して戦闘に負けることもあるし、戦争の指示命令が正しく軍に伝わらないと命の軽視が始まることや、エスカレートして致命的な悲劇が起こることもある。日本の戦争が天皇によって止められなかったのは、ここに原因がある。

 

 こうして考えると分かるように、戦争の「目的」は、相手国のあらゆる抵抗力を、全く不可能にすることに本質がある。二度と抵抗させないために取り決めで相手を言いなりにして、自分たちの意思を押し付けて、新たな戦闘力の形成を防ぐために国土を占領するか、相手国を軟化させて言いなりにできるなら国土は占領せず保全する形をとる。また、相手国の意思(心)においても完全に屈服させて、欲しかったものを奪うための支配システムを作る。これでようやく戦争の目的が完了する。いかなる戦争終結においても、戦闘行為自体で解決ではなく、むしろ戦争の本質は、戦争後にあると言っていい。

 

戦争の性質は「不確かさ」

 

 理論上の戦争は抑制しながら行わないと、極限まで突き進む性質がある。片方の国が武力行使すれば、もう片方も武力行使せざるを得ない。もし対抗しなければ、劣勢に甘んじて屈服し要求を強要されるからだ。この相互作用(お互いが自分の要求を強要する作用)の中で双方が武力の行使、開発、新たな同盟国の構築などで戦争がエスカレートしてゆけば、戦争は極限まで達せざるを得ない。

 

 更に、最も愚かなことは、本来の政治的な「目的」を見失って、「手段」であるはずの戦争が「目的」であるかのように思いこんでしまうことである。いったん戦闘が開始されると、敵を打倒するという目標が「目的」とみなされ、政治的な「目的」よりも戦争それ自体が前に押し進められてしまうのだ。「手段」だったはずのことが長期にわたり継続されると、「手段」の方に熱中してしまい、本来の「目的」を見失ってしまう。そういった出来事は、身近にもあるだろう。何かの「目的」のために金を稼ぐつもりが、いつの間にか「手段」であったはずの金自体が目的になってしまい、挙句の果てには貯金通帳をニンマリして、お金そのものが大好きになって、本当の「目的」がどこかへ吹き飛んでしまう。そんな経験を、誰もが一度は経験したのではないか?「目的」と「手段」を見失う例はいくらでもある。こんな風に、つねに「目的」を強く意識し続けなければならないのは、戦争においても同じである。

 

 一度、始まってしまった戦争の方向性は、「政治的、経済的、技術的、相手国の意図、自然現象、国内情勢、世界の動向」等に左右されるものが大半である。これらはどれも自国のみでは完全に推し量れず、予期せぬ方向に進む要素である。例えば、自然環境(天候・立地条件)においては、作戦実行をする軍人の行く手を阻んで難航し戦略失敗し、そもそも戦闘する前に軍人が死ぬ。あるいは、相手国が降伏するかどうかの意思や、相手国が途中から相手国に同盟国が参加すれば形成が変わる可能性もある。相手国がどう動くのか、相手国がどの程度の破壊で屈服するか、破壊のリスクと、屈服のリスク(戦後の国家状況)をどう天秤にかけるか、それらは相手国の考えや、状況次第である。その意味で、戦争の方向性を大きく占めるのは「不確かさ」が四分の三と言われている。

 

 これらの現実的な「不確かさ」が戦争を「鎮静化」させている。戦争が一発勝負ではなく、無数の戦闘の繰り返しによって構築される理由は、1回1回の戦闘行為(武力の行使)の間に、すでに損耗した戦力と、今後損耗すると思われる戦力と、自分たちの政治的目的価値と、戦後に待ち受ける状況を天秤にかけて、このまま戦争を進めるべきか、停止すべきかを双方が考えるのである。その前提として、「戦争の危険」をお互いの国が正しく認識できていることが鎮静化の重要な鍵となる

 例えば「核を打ってやる!」と脅したところで、「どうせ打たないだろう」あるいは「核の危険」が理解できていなければ相手の国には通用しない。「戦争の危険」を実感することが、いかに大切なことかわかるだろう。また、戦争に熱中するあまり「目的」と「手段」が逆転してしまう国などで、「敵を破壊するまで戦う!」という積極的かつ冒険的な覚悟が相手国に見られる場合などでは、“窮鼠猫を噛む”と言われるように、追いつめられると小国であっても、軍事的に不利な立場であっても、強気で引き下がらないかも知れない。

 

 相手の国、その時の情勢など、絶えず「不確実さ」の中にある戦争において、戦闘の繰り返しの中で、講和のチャンス作っていくことこそが、戦略の柱となる。具体的には、お互いの国が、自分の国に有利な形にするために、「相手に勝てそうもない」とか「戦闘力の消耗が激しく戦争を持ちこたえられない」などの「敗北感」「将来への不安」を誘発させる形成にもっていこうとするのである。したがって、実際の戦争は極限まで進むことはなく、「鎮静化」の方向に働くのである。

 

 こうした「戦争の危険」の認識を、相手の国が兼ね備えている保証はない。魚が水の中を泳ぐように、人間が空気の中で生きるように、生きるのに必要な「水や空気」と同じように、「戦争は危険の中で行動することだ」。それは、戦闘経験のない人にとって「戦争の危険」を実感することは難しい事実を意味している。その判断もまた「不確かさ」となる。それを見極められない難しさが、戦略(方針)を立てる難しさでもあるかた、更に行く先の見えない暗闇と危険を作り出しているのだ。「戦争の危険」と「不確かさ」が増えるほど、戦争は鎮静化されやすいのである。

 

 戦争の方針や作戦を立てるためにも「不確かさ」を少なくすることは大切だ。まず総力戦(長期戦に備えて再編しながら行う戦争方式)を準備しておく必要がある。戦争しながら新たな軍事兵器を開発し、戦争しながら軍事訓練や軍人育成を行い、戦争をしながら戦略を立てていくことだ。こちら側で短期戦で終結させようと計画しても、相手の国が意図的に総力戦に持ち込んでくる作戦なら、想定した対応を準備することが必要となる。例えば、戦争をしながら食料や衣料や石油や武器(鉄くず)の補給を確保し維持すること、戦争をしながら新たな軍事兵器を開発し、戦略や戦術も立てていくこと、それに合わせた軍人育成をしていくこと、怪我をした軍人の治療や体力の回復や、軍人の精神力(勇気や使命感など)も維持させる精神プログラムなど。実際の戦争においては、戦争と同時並行で多くの管理・維持・創造が行われており、戦争の結果を左右する。かつての戦争においても日本軍の石油ルートが破壊された。あらゆる「不確かさ」を想定した戦略の見極めが非常に重要だと気が付く。行き当たりばったりの、自分勝手な妄想で戦略を立てたら戦争は勝てない。戦略や方針を立てるためにも、作戦を成功させるためにも「不確かさ」を減らすことが重大なのである。

 

 「不確かさ」を減らすためにも、相手国の情報収集(スパイ・諜報活動)が最大任務だ。スパイを利用して収集させたり、スパイが侵入しないように情報収集を防いだりする。ロシアや北朝鮮が諜報活動やスパイ排除に敏感な理由も、いざ戦争となれば、これらが価値の高い情報となるからだ。敵の諜報だけでなく、戦闘を実行する地形や風土や天候の情報、人の流れなどなどを把握することは、戦略成功の「不確かさ」を排除する材料となる。戦争を開始する前に、戦いの準備は始まっている。堅実な国防にとって移民の受け入れは情報が流失する大きな要因だ。国防上は好ましくない。情報が集まるほど、戦争はコントロールしやすくなり優勢となる。無意味な戦闘を防ぐためにも、戦争した際の勝率を上げるためにも、日頃から諜報活動は行われている。

 

 しかし、せっかく掴んだ情報(諜報)も、時間の経過とともにすぐに古くなるし、多くの諜報が嘘の可能性がある。結局は、常識的な基準を用いて、「自分たちの見込み」に基づいて判断されることになるから、諜報活動をしても相手国の「不確かさ」を完全に除去することは不可能である。特に混乱した戦争状態においては、嘘情報が何度も何度も押し寄せる。恐怖や焦りが助長されやすい状況下では、人間は間違った大きなインパクトのあるものに飛びつきがちになったりする。自分の立てた計画と異なる情報が入れば、躊躇するし自信喪失する。戦争は真っ暗な危険の中を絶えず進むようなものであり、戦争の方向性も不安定な中において、どんなに精神の均衡を保とうとしても、嘘情報が混じる中で、正確に判断・分析することが非常に難しい。人間の本性は、敵の勢力を過小に評価するよりも、過大に評価する傾向が常に大きい。つまり、完全とは言えない人間の判断により、戦争は理論的な「必然性」よりも、むしろ多くの「賭け」「運」の要素が含まれるのである。「偶然性」の連続である戦争の作戦指導部に、他人に流されやすいような人、感情に流されやすいような人は、適任ではない。階級が上がるにつれて責任と、精神的な能力の高さが要求される。ストイックな精神(禁欲者)、勇気や強い名誉心、危険に対する経験などが、数々の「不確かさ」に対応できる精神的要素である。理論的なものが役に立たない戦争の中で冷静に対応し、自分の決断に自信をもって決断するためには、勇気や自信のような精神力が、指導者としての役割を果たす。

 

戦争は絶対に起こさない!これが大原則だ!

 

 「戦争はスポーツのようなもの、戦争を終えたらスポーツマンシップにのっとり、相手国に敬意を払うべきだ」と述べた人がいて驚愕した。沢山の人が死んでいるのに、戦争がスポーツマンシップだとは、戦争の本質を知らなすぎる。アメリカ人の中には「戦争後は和解をして、お互いに信頼関係が作ろう!」とか言っている人もいるが、それは勝利国の詭弁だ。こういう思考が平和のために役に立つとは、とても思えない。スポーツのような爽やかな世界であるはずもない。

 

 むたらしい死を山のように積み上げ、恐怖と痛みの地獄で死んでいく仲間を目の前にして、愛する人をゴミのように殺された者たちの気持ち、敗戦すれば国の主権を奪われ、歴史も文化も叩き潰される。スポーツマンシップなどあるわけがない。自分たちを殺した相手に敬意など払えるはずもない、憎しみは簡単に消え去るわけがない。残るのは子孫の代まで続く憎悪だけだ。簡単に友愛が芽生えるという期待は、勝利者の勝手な詭弁で、何も分かっていない。血は血で洗えない。だから戦争の歴史を終わらせるのはとても努力がいることなのだ。

 

 実戦での戦争は、無数の戦闘行為(作戦)の繰り返しで、その過程でもどんどん軍人が死んでいく。その恐怖は計り知れない。たとえ、一つの戦闘に勝利したとしても「やった!嬉しい」と歓喜して高揚するものではない。厳しい言い方をすれば途中の成果には意味がない。一つずつの戦闘の集合体が戦争であり、一つずつの戦闘に勝っても、相手が屈服するまで無制限に戦争は継続されるため、最終的に勝ち続けねばならない。そして相手国を屈服させなければならない。一つの戦闘に勝っても、戦争は常に真っ暗な危険の中を進み続ける。一つの戦闘に勝っても負けても、戦闘は続く。どちらの国の軍人とっても。戦争は生命から生きる権利を奪い、家族や仲間を殺し、町や文化を破壊し、国が構築した努力を叩き潰し、敗戦国の主権国家を剥ぎ取り、敗戦国の愛国心を奪う。

 

 生き残った者たちは、その子孫も含め、敗北したことを必死に受け止めて生きるのだ。誰だって人殺しなどしたくない。それなのに、国や家族や愛する者のために命を捧げて戦った軍人が、敗戦後には罪人としての容疑に問われたり指導者が処刑され、周りに褒められるのではなく、まるで非難されるかのような空気感の中で生きるのだ。当時を知らない私たちには想像できない屈辱と苦痛だろう。それでも、そこで得た反省や体験を、次の希望につなげるために必死に努力する。沢山の犠牲で得たものを放棄して生きるなんで冗談じゃない!と。国家の誇りを潰されまい!と。犠牲から何か生かせるものが無いか

?と、必死にもがき続けるのである。「耐えが難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」その精神がどれだけのものか知りもしない者たちが、「スポーツマンシップ」だなんて、簡単に言う。

 

 現代の国際社会において、国家間の相互尊重の精神が重視されるようになると、相互破壊しない精神こそが、新しいナショナリズムの形になりつつある。今、目の前に一つの政治的な「目的」があるとして、健全な政治的な「目的」があるとしたら、対話交渉によって解決させることが、最もコストパフォーマンスが良い。近代的でスマートな外交手法である。いきなり武力をチラつかせたりしない。戦争は起こさないのが大原則だ。

 

 近年にあるような、軍事産業で金儲けが「戦争」の目的になっている場合は、戦争コストで商売するため、あえて不必要な戦争を起こそうとする。アメリカやロシアだけではない。日本も軍産ビジネスの拡大傾向がみられているため、経団連はこうした戦争に賛成してゆく動きとなる。自国の犠牲は避けたいため、他国に対して不必要な危機感を煽り、他国で小規模な戦闘行為をするように仕向けるなどして、武器を購入させて、その上で買わせた武器や兵器を戦闘行為で消費させる。あくまでも金儲けが「目的」であり、戦争は「手段」に過ぎない。他人の命を殺して金を得るために、自作自演(時には自国民を殺す)で原因を作って利益を流す。

 

 政治家が軍事産業セールスマンとして動き、自衛隊はパフォーマンスとして利用される。軍事セールスを活性化するために、日本においては憲法9条は邪魔である。軍事産業を展開している国が、戦えない平和国家ではセールストークの弊害になる。だから経団連は、憲法9条の改正を必死に促進する(安倍政権の支持基盤は現在は日本会議よりも、経団連が支えていると言われている)。こんなものは暴力団のやり方だ。どの国の軍人も軍事産業のコマじゃない!命を張っているのだ。自衛隊の家族からしたら冗談じゃない!と怒り狂っていいくらいだ。こんなことを自衛隊が知れば、自衛隊志願者は減って当然だ。お国のために戦うどころか、軍事産業セールスのために戦わされるのでは、バカバカし過ぎる。自衛隊は税金である。だから自衛隊は国民の財産である。命を張っている国家財産を、軍事産業に利用するなんてのは、暴力団的であって、正義でもなんでもない。

 

 憲法9条は、そもそもアメリカの軍事産業を支えるために、アメリカにとっても邪魔だった。安倍晋三にとっても「アメリカ属国が平和のためだ」と、祖父である岸信介に強く信じこまされてきたた。安倍首相が強引にでも憲法改正をしたい理由は、経団連側の意向、アメリカ側の意向、安倍晋三側の意向それらがそろっているからなのだ。言わずに知れたことだが、戦後レジームからの脱却ですらない。何が正しいことなのか、冷静に考えれば、答えは自然に浮き上がってくるだろう。

 

 これで戦争の構造はおおむね理解できた。いよいよ「戦争を起こさない方法」を分析してみる。

 

戦争を防ぐ方法①目的ごと叩き潰す!

 

 戦争は暴力的な手段である。しかし戦争の悲惨さを知れば、暴力を持って目的を達成しようという方針そのものが、すでに暴力的な野望だと気が付く。戦争においても戦力が弱い国と考えれば、自国が優勢と見て強気に出るように、身近な人間関係でも、力が強い者は弱いものに対して強気に出る。だからこそ皆が強くなろうと努力する。だが、そもそも相手を尊重しない欲望こそ、人間として極めて「低度」な卑しい精神構造を持っている。暴力的な野望だからこそ、暴力で相手に欲望を強要する。こんなものが正義だなんて騙されてはならない。正義だと称している「目的」は、よく考えれば、最初から自分勝手で「暴力的な押しつけ」であることに気が付くはずだ。その人間(国)が、人権無視、人格無視、主権国家無視の、暴力的な人間(国)だということを証明しているようなものなのだ。どの戦争にも本物の正義はないということだ。

 

 したがって、戦争を防ぐためには「手段」に移行する、はるか手前、その「目的」ごと叩き潰すことしか方法が無い。暴力的な空気感(雰囲気)ごと、徹底的に叩き潰すしかない!

 

 「武力」は外交カードの一枚であるから使うかどうかの判断は「政治家」にゆだねられる。政治家がそのカードを切れば武力行使されることになる。相互作用(お互いが自分の要求を強要する作用)で戦闘となり、戦争が勃発する恐れがあるから、基本的には使わないのが大前提の「最終カード」である。その意味で、武力の行使はリスクが非常に高く、「高度な外交手段」と言える。「高度な」という表現の裏にあるのは、「低度」では扱えない「政治的な手段」ということが示唆されている。もし「戦争の危険」も理解できない政治家が使ったり、暴力交渉が大好きな国家が使ったりして、少しでもボタンの掛け違いがあれば、武力は「脅し」でなく、本当に行使に発展する可能性がある。あまつさえ「不確かさ」が支配するのが戦争だ。このような危険なカードを政治家が使うような「目的」を抱かせる前に、「目的ごと」叩き潰さなければ戦争は絶対に防げない!

 

戦争を防ぐ方法②憎悪や敵意を持たせない!

 

戦争を構成する3つの要素。

 

・「政治的従属性(政治家)」

・「偶然性(軍隊)」

・「憎悪や敵意(国民)」

 

  3つの戦争を構成する要素(三位一体論)は、「政治、軍隊、国民」そのどれもが「元々は国民」だということに気が付けるだろうか?そして日本は民主国家である。国民の世論は絶大な力を持つことを見逃してはならない。つまり、しばしば戦争が勃発される過程、あるいは戦争中において、政府は国民に対して、「相手国の憎悪や敵意」を煽る(あおる)。相手国が酷い仕打ちをされたとか、それが味方による自作自演であっても、国民に「憎悪や敵意」さえ巻き起これば、それは戦争を構成する要素となる。その自作自演のためなら、自国民も犠牲者の演出として殺す。平和のための犠牲だと嘘をつく。自分のことしか考えない自己中心的で他人を尊重しない者の考えていることなど、腐っているのは当然だろう。

 

 だからもし、あなたが平和を守る行動を起こすなら、あなた自身が戦争の構成要素にならないことだ。つまり、特に政府が対立したがっている国(中国、北朝鮮、イスラム)に対して、政府に同調して憎悪や敵意を燃やしてはならない。その憎悪の流れに必死に対抗しなければならない。どんなに嫌いな国でも、殺していい理由にならない、叩き潰していい理由にならない、それを決める神様のような絶対的な権利は誰にもない。それが、戦争の最大の「抑止力」となる!

 

 もしあなたが、政府と同調して憎悪を捨てないのなら、あなたは戦争を起こすことに手を貸したことになる。たとえ嫌いな国でも憎悪や敵意を簡単に持ってはならないのだ。戦争をしたくなければ、必死に頭を働かせて、何が正しいのか?どうすべきなのか?を考え続けなければならない。それは「孤独な作業」だが、テレビや芸能界や政治家の芝居に流されてしまうから、人生は快楽や欲望や感情で動いたらダメなのだ。その「責任」を果たしている者だけが「平和が好き!」と発言する「権利」が与えられる。自分の手で努力もせず、思考を働かせず、テレビを見て笑って、酒を飲んで遊びまくって、誰かの意見に乗っかって、ただ「平和を守ろう」と旗を振るだけで平和を維持できると思ったら大間違いだ。死ぬほど努力しなければ、平和は維持できない。

 

戦争を防ぐ方法③愛国心を持つ!

 

 そして、本物の「愛国心」を手に入れることである。本物の「愛国心」を手に入れれば、他国も同じように尊重することができるからだ。祖国を愛おしく思う心を「愛国心」と呼ぶならば、祖国が人間性の維持にとって大切なものであり、歴史や文化の蓄積がそれを形どり、人間性や国家が「唯一無二」なものだと理解する事だと分かるだろう。これは平和にとって重要である。国とは「ただ生活できて、ご飯が食べれればよい」というものではない。それでは、まるで家畜だ。人間は家畜ではないのだから、祖国へ愛を持たねば人間性は保てない。もし日本がアメリカの植民地(属国)にされて、例えば「アメリカ国ジャパン州」となったら、それはもう違う国であり「大切な祖国」ではない。その重み「愛国心」を大切に守ることは、自分の国と同じように、相手の国もまた唯一無二な「大切な祖国」であり、その人たちにとっても「愛国心」があるのだと気が付く。それは間違いなく「平和のためブレーキ」となる。

 

 もし、祖国を愛おしく思う心「愛国心」という概念が消滅すれば、国は「ただ生活できて、ご飯が食べれればよい」とく、ただの土地・場所となって、人間はそこで生かされる家畜となる。祖国が消滅しても、適当に生活できれば「別にいいじゃん」、という思想は家畜の思想だ。そして実はこれは、「移民の思想」だったりもする。移民というイメージは遊牧民が分かりやすい。歴史も文化も無いのだから、土地にも依存しないし、祖国を愛おしく思う心「愛国心」もない。戦争国家アメリカが、ユダヤ移民に支配された国なのは、多くの人がご存じだろう。移民には「自分たちは強いんだ!」という威勢はあっても、「愛国心」が理解できないから、歴史や文化を失う恐れもなく、利益を最優先して戦争を起こせる。こういう移民の発想では、戦争はなくならない。

 

 日本は移民の国ではないが、近年の日本は、残念ながらアメリカ化により、移民的な思考の人が増えてしまった。しかし本当は、日本は移民国家ではないのだから、歴史も文化も、もっと大切にしなければならないはずなのだ。それが敗戦の歴史でも、臭いものに蓋をすることなく、大切にすべきなのだ。だが、おそらく前回の戦争において「愛国心」が悪用されて、「愛国心があれば命を捨てろ」という武士の思想が、戦訓として使われたため、「愛国心」を怖いものだと勘違いしている日本人が多いのだろう。しかしそれは違う。「愛国心」が悪いのではなく、「愛国心があれば命を捨てろ」という思想を、万人に押し付けたことが間違っていただけなのだ。悪いのは「命を捨てろ」の部分であり、「愛国心」ではない。本物の「愛国心」とは、祖国を愛おしく思う心であり、当たり前のことだが「愛国心」とは「命を捨てること」ではない!(偽物に騙されてはならない。)本物はむしろ、「愛国心」は戦争の「ブレーキ」となる。

 

戦争を防ぐ方法④道徳心!

 

 子供たちの教育において、全ての大人に教育者としての義務と責任がある。自分の子供がいない大人も、だ。その方法は簡単だ。大人としての責任を果たす資格が自分にあるか?子供に道徳を教えてやれる教養が自分にあるのか?を常に自問自答しながら生きること、それだけで良い。昔の日本人はそうやって、他人の子供にも道徳や善悪を教えてきた。老人は邪魔者ではなく、家庭の中で知恵を教える役割があった。教育勅語や天皇が気持ち悪いと言っている日本人は、あなた自身が子供の規範になればいい。その努力をしない大人に、「平和が好き」と発言する資格はない。もちろん政治家を批判する資格すらない。

 

 人間の心の奥にある暴力的なものは、できるだけ排除する。子供たちを自由にのさばらせるのではなく、子供たちの心に「道徳心」と「理性」と「文化」という主軸を作ってやる。それは大人の仕事だ。やがて徳育で育てられた子供たちが大人になったとき、他人の権利を自分の権利と同じだと感じられる豊かな人間性に育てば、卑しい人間は日本から淘汰されていく。その子供たちから、政治家、軍人、国民が育てば、世界から暴力的(相手の意思を無視するような)手段は、だんだん姿を消していく。自分の利益しか考えない「人間のクズ」を育ててはならないためには、まず大人が子供の手本として「人道徳心」高くある事だ。「悪」が前進すれば「善」が後退する。だが「善」が前進すれば「悪」は後退するものだ。

 

 一度、暴力的(非人道的)な手段に手を染めると、人間は暴力手段に固執していく傾向がある。親和や対話の努力は、道徳心の欠如した者にとっては苦痛となる。他人に譲歩することに猛烈なストレスを感じるようになる。暴力でしか「目的」を達成できない歪んだ人間性が形成される。長い目で見れば、本物の信頼こそコストパフォーマンスが良いのだが、道徳心欠如者には、それが理解できない。こういう日本人が戦争を作る。大きな流れに流された家畜のような人間が戦争を起こす。「人間のクズ」の購買力を狙ってメディアも快楽と欲望に満ちた記事ばかりを書く。その記事に飛びつく者こそが、戦争の原因と暴力の種を、日本中にバラ撒いて植え付けている張本人なのだ。道徳を手放して、快楽と欲望に溺れる者が戦争を作る。道徳の高い国民の力は、みなさんが考えている以上に、絶大な力を持つのである。流行や娯楽や快楽に流され(騙され)さえしなければ・・・。

 

後編に続く・・・

クリック!!後編★戦争とは何か?【日本が平和だった理由・憲法9条を守る意味】北朝鮮はなぜミサイルを打つの?

 

(前編★戦争をなくすには、どうしたら良いのか? by 雪華天)

※転載自由、著作権主張、転載元表記要。

 

参考資料 (雪華天からの推薦図書)

戦争論クラウゼヴィッツ(第一章)

補給戦 マーチン・ファン・クレフェルト

 

追記 日本人は「戦争アレルギー」がひどすぎて、「戦争」というだけで眉をひそめて逃げていく。そういう大人を何人も何人も見てきた。「戦争が隠され続ける」ことに疑問を感じながら、大人になった。だが戦争を隠す彼らは嘘つきである。広島原爆ドームばかりが観光地化されて、「知った気になっている日本人」が多すぎることは、かえって危ないのだ。戦争の本質が分からなければ、戦争を防ぐことなどできないからだ。「平和のため」と称した罠があちこち仕掛けられていることにも気が付けない。「平和のため」と称しながらも、実は思考停止している詭弁がウロウロしている。「戦争論/クラウゼヴィッツ」は哲学書ではなく、まぎれもなく戦争を構造を理論的に研究した書である。戦争分析の技術を手に入れてほしい。自分で考え、自分の手で分析する力を得るために。