森友学園の真相・分析①【籠池さん偽証罪で告発?証人喚問・慣例を無視する自民党・嘘つき】不正受給 | 和み雪 降る夜 

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無責任な国民こそが、日本の有害因子なのだから。

証人喚問の証言の重み

 

 まずは、籠池氏の証言喚問(3月23日)での発言に、心からの感謝と敬意を表したい。
少しでも嘘をつけば、偽証罪に問われかねない重い証人喚問に、「安倍総理を侮辱したから」という理由だけで、一介の私人(民間人)が呼ばれた。籠池氏が自ら望んでいた証人喚問とはいえ、こんな異常がかつてあっただろうか?首相の名誉が傷つけられたという理由で、一介の私人を証人喚問するような高圧的な国家であってはならない。しかし自民党の目論見とは裏腹に、皮肉にも政治の実体(嘘)を解明する入り口を作ってくれたのだから、国民としては感謝するのが、まず当然だ。紆余曲折あったが、自身の正受給は潔く認め、最後は国会で全てを語りぶちまけた、その勇気と度胸は本物だろう。

 

 あるジャーナリスト(山口敬之)は「籠池氏の証言は恨みを晴らす行動だから混乱を招いている」、なとど批判しているが、内部告発(正義の証言)は、しばしば怒りが発端なのは常である。発端が怒りであろうと何であれ、真相究明を求めて証言した者に感謝すればこそ、ケチつけるなど人として許されない。勇気を否定する社会は、幼稚であるだけでなく真実を捻じ曲げる。ましてジャーナリストという身分なら、勇気ある証言を”恨みが発端だから”などと一蹴して切り捨てるようなことをしてはならない。
 
 また、証人喚問で質問をしていた自民党衆議院議員(葉梨康弘/自民党総務部会長)は、あるテレビ番組(Nスタ)で「籠池氏は思い混みが激しい」とか、まるで妄想人であるように批判しているが、少なくとも”真実を話すと宣誓した人間”に対して、妄想だなど一蹴してはならない。法治国家を尊重すればこそ、真相究明のカギは、籠池氏の証人喚問の中にある。それを全て”妄想だ”と断言するなら、国会議員としてあるまじき行為、法治国家・日本への侮辱である。
 
 しかもこの葉梨議員は、警察庁の出身で法務副大臣歴任者である。そういう身分にも関わらず、法治国家を無視するクズ公務員が、誘導尋問や冤罪を生み出すのだろうかと、思わず想像した。更にテレビでの葉梨議員の暴論は止まらない。「昭恵夫人と秘書には電話で聞いて寄付金は否定していました。問題ありません。」などと、滅茶苦茶な破たん理論を、恥ずかしくもなく堂々と述べていた。あり得ない。証人喚問でハッキリ断言された発言と、身内により電話で確認しただけの発言を比べれば、どう考えたって「法的な証言の重みの差」が違う。法務副大臣歴任者のくせに、そんな差も理解できないのか・・・。
 

 挙げればきりがないほど、籠池氏の証人喚問の意義を否定したような風潮(テレビなど)が乱れているが、籠池氏は独特の個性があるから、キャラクー性だけを叩きやすいのだろうが、人を印象で判断するなら、そもそも法律は不要である。法治国家を無視した発言が、テレビを使って放送(拡散)されることが本当に恐ろしい。テレビが悪政の元凶のような気さえしてくる。

 

証人喚問を甘く見てはならない。証人喚問の証言と、証人喚問圏外の証言は「法的な重み」が全く異なる。証人喚問で宣誓した証言は、裁判になれば証拠能力がある。証人喚問でハッキリ断言された発言と、Facebookや電話で確認した発言を比べれば、どう考えたって「法的な証言の重みの差」が違うのである。

 

 籠池氏は私人でありながらも、証人喚問で与えられた時間を無駄にすることなく、手際よく核心に触れる証言を堂々やり遂げた。その姿からは、味方から裏切られた恨み、失うものが何もない底知れぬ強さ、「すべてを語ってやる!」という気迫と決死の覚悟が感じられた。くだらないテレビのコメントを聞くよりも、証人喚問の全部を見ることの方が近道である。保身に関わる質問(刑事訴追や別件に発展するもの)を交わしながら、各議員の厳しい追及に対して臆することなく答弁する。その姿に迷いは全くない。それができたのは、彼の証言がほぼ全て真実だからである。「真実を述べることを誓います」と冒頭に宣誓したとおり、絶対的な自信をもって回答したのである。

 
 この森友学園事件は、官僚社会と政治の本質を知る上で、非常にわかりやすいテキストになっている。民主主義の意味は、政治の真偽を決める責任と義務が、国民にひとりずつに等しく委ねられている重要性を意味する。民主主義において、政治が正しく動くために、国民が「何か一つでも行動」をしなければ、国は正しい方向に絶対に向かわない。今が良ければいいとか、ただ納税をしていれば良いものではないし、遠い未来への橋渡しまで考えられない楽天主義者は、恐るべき「民主主義の毒的存在」である。籠池氏の証言が本当かどうかは、今後司法が決めていくことである。しかしながら、籠池氏は真相究明のために「何か一つの行動」をした。正しさのために何もしない人が、正しさのために何かした人を叩く権利など、全く無いのである。
 

 そのような中(3月28日)、自民党(西村・総裁特別補佐ら)は、籠池氏の証人喚問での証言が偽証の疑いが濃厚とする自民党独自の調査における中間結果を発表した。籠池氏が昭恵夫人から受け取ったとする100万円を振り込んだ際の受領証の筆跡や、森友学園が寄付金を集めるため「安倍晋三記念小学校」と印刷した振込用紙の使用期間などについて、「国政調査権」の発動も視野に、偽証が確定すれば告発も考えたいと述べた。

 

 しかし、100万円の振り込み票の筆跡が、事務員ではなく籠池氏の妻であろうが、それ以外の第三者(郵便局の職員)だろうが、誰が書いたとしても籠池氏の証言が根本的に変わるわけでもない。事件の真相究明にとって、何の意味があるのだろうか?そもそも、自民党(政党)には虚偽罪を告発する権限がない。「国政調査権」は、国会(衆議院と参議院)に与えられている権限であり、自民党が勝手に行使することはできない。それどころか、事件が解決していない段階で証人を逮捕すれば、真相究明が迷宮入りしかねない。行政府が立法府に口出しまでして、なりふり構わず真相究明を妨害したがる「自民党の傲慢さ」こそが「民主主義の毒的存在」なのである。

 

 証人喚問とは、議院の国政調査権に基づき国政に関することの調査のために証言を求めるのであって、違法な証人に懲罰を与える目的ではなく、事案の真相究明のために行われるものである。真相究明にとって役に立たない告発をするならば、むしろ妨害に当たる。こういう場合の政府の目的はハッキリしている。森友問題を闇に葬るために、証人(籠池氏)をとりあえずは逮捕させて、一時的にでも口封じや、印象操作(悪い奴だから証人喚問も嘘だろうという印象)するのためだろう。しかし、証人喚問が「真相究明のため」ではなく、「真相隠滅に悪用」される誤用は、絶対に許されない。

 

 証人喚問にも「慣例」というものがある。例えば、虚偽罪の告発には国会で全会一致の慣例や、人権とのバランスを配慮しなければならないため、権利の濫用にならないように細心の注意が払われてきた。証人が証言するには、虚偽罪という重いリスクがあるからこそ配慮されてきたのである。証人喚問の質疑答弁は、お互いに事前通達が無いために準備のない質問もされる。本人も記憶があいまいな部分もあったと述べているし、人間なのだから、多少の二転三転(状況が理解されるようなレベル)は、慣例に従えば許容範囲である。それは、あくまでも証人喚問が真相究明を目的としているからである。
 
 にもかかわらず、こうした慣例を無視するのであれば、今後の証人喚問では、「刑事訴追の恐れがあるのでお答えできません」なんて証言拒否する証人も続出するかもしれない。政府に不利な証言は制圧されるという恐怖を与えれば、真実を語る場ですらなくなってしまう。こうして政府の顔色をうかがう場になるなら、三権分立の意味もなくなる。だからこそ、証人喚問の慣例は重んじられてきたのであり、これを無視した行為は異例かつ今後の健全な証人喚問ためにも極めて危険である。この誤用が未来の慣例になってしまうからである。

 

 もちろん、籠池氏の補助金申請(不正受給)の書類上の問題は、法的に問われる部分(ズル)がある。本人も「刑事訴追のおそれがある」と発言して認めている。しかしながら、ズルをするような人間だから証人喚問でも嘘ついているに違いない!みたいな誘導・暴論は法治国家では許されない。むしろ、裏切りや酷い目に遭った反動で、全て正直に、何もかもぶちまけ暴露し始める人間心理は、理屈に合っているだろう。最初はズルをしても、最後には堂々と証人喚問で証言していた籠池氏を見て、締めくくりは「教育者」であったと確信した。人間はみな紆余曲折がある。紆余曲折ありながらも、最後は園児たちに、「教育者」としての姿を残せたことが、本当に良かった。

 

 籠池氏は、証人喚問で疑惑究明のために立派に証言をし、潔く不正受給を認め、最後は「教育者」として終わることができたが、さて、政治家(安倍政権)の方は、どうか?自らの過ちを認めない大人(政治家・安倍首相)よりも、自らの過ちを認める大人(私人・籠池氏)の方が、誠実であることは子供でも分かる。子供でも分かるレベルで、嘘をつき続ける大人が政治家という職業をやるのは、やっぱりマズイだろう。政治家の立場にある人間が、証人喚問の意義すら無視しようとする姿は、あまりに卑しい、どう考えても大きな疑問符が付く。

 

 そういえば、証人喚問で質問をしていた先述の自民党の衆議院議員(葉梨康弘)は、証人喚問後のテレビ番組(Nスタ)にで、以下のように発言していた。「ある程度物証が取れる事、あるいは専門家か関係者に聞けばわかる事だけに絞って、私は質問させて頂いた。今のところ、私が入手している資料に基づくものだけを質問した。」などと、偉そうに述べていた。

 しかしよく考えてみれば気が付くことだが、葉梨議員の発言はおかしい。財務省は値引きに関わる書類を全て処分してしまっているから、葉山議員の入手している資料とは、国有地の払い下げ問題に関係する資料ではない。しかも寄付は二人きりで行われたのだから関係者はいない。いるのは当事者の安倍昭恵夫人(と秘書・身内)だけである。財務省の関係者は口を閉ざしているし、その範囲でしか最初から質疑する気が無かったとしたら、値下げ理由と、寄付金の有無に関しての真相究明を、そもそも自民党はする気がなかったことを意味している。

 

 事実、葉梨議員の質疑は、補助金申請の書類が3種類ある事ばかりに集中していた。これは本筋から脱線しているし、証人喚問は裁判ではない。自民党の証人喚問の目的が、最初から真相究明ではなく、籠池氏をハメることが目的だったとしたら、これは証人喚問の誤用であり大問題である。葉梨議員のこのコメントをよく考えてみれば、自民党の本音が隠されている。国民は、この本音を見逃してはならない。

 

 理想的な内閣総理大臣は、国民と国家の利益を考えて、疑惑の真相解明に努めてくれる。私を侮辱した!などという小さな理由で私人を証人喚問などしないし、勇気ある証人を褒めたたえることはしても、貴重な証言(しかも私人)を逮捕させて、口封じを図ろうなどと恥知らずな行動はしないだろう。ところが日本の内閣総理大臣は、「証人喚問の意義」も踏みにじって、「慣例」も「三権分立」も無視して突っ走り、総理大臣自らが、真相追及を妨害している。

 

 日本のモラルには、犯罪者であれば身内であっても厳しく対応せよ、というものがあるが、安倍首相は自分の妻を証人喚問に差し出すことすら拒否して、真相追及に協力していない。政治家は国民の手本・規範であるべきなのだが、安倍首相の今の姿は、権力にしがみつく亡者と呼ぶのがふさわしい。こんなのは理想的な政治家ではない。

 

(森友学園の真相・分析① by 雪華天)
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(画像 証人喚問で答弁する籠池氏)