橿原は古代史の宝庫|新沢千塚古墳群 | プログレス学習教室 橿原市

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雨ですね
大気中の花粉を落としてくれるので
この時期の雨はすこしうれしい気がします

きょうは公立高校一般選抜の学力検査日
みんな無事にすんでくれるといいですね
ほんとうに祈るばかりです


橿原は奈良盆地の南の端ですが、
盆地が北西に偏っているので
奈良県全体では北西部にあたります
南部の紀伊山地から見ると、橿原はその出口に位置しているので、山間部の自治体の寮があったりします
紀伊山地は林業でずいぶんにぎわったようですが、今は衰退して人口減少が続いています
そして、盆地の入り口の橿原市や桜井市に住むというわけです

奈良盆地は、もともと巨大なくぼ地だったそうです
長い年月をかけて土砂が埋め、平たい盆地ができました
橿原は盆地の端ですから、市の南には、埋め残された丘陵が、山地のしっぽの先のように北に伸びています
名高い大和三山も、埋め残された山頂の名残でしょう
そんな山のひとつに、高取町と境界になっている貝吹山があります
貝吹山は墳墓の宝庫です
北東に伸びる尾根には、巨岩が露出している岩船、小谷古墳、少し下って沼山古墳、丘陵地からすこし離れますがそのまま東に丸山古墳、植山古墳、菖蒲池古墳、巨大な墳墓の切れ端が見つかった小山田遺跡、
南東に伸びる尾根には、牽牛子塚古墳、越塚古墳、岩屋山古墳、そこから南に尾根が曲がって、マルコ山古墳、束明神古墳、
そして、北西に伸びる尾根には、これからお話しする新沢千塚古墳群が、低い尾根伝い全体に、尾根の端の忌部山の近くまで広がっています
陵墓も含めて、橿原・明日香・高取の墳墓は、貝吹山の尾根伝いに点在しているという感じですが、なかでも古いのは、新沢千塚古墳群でしょう

新沢千塚古墳群は、円墳に方墳が混じった群集墳で、
4世紀の終わりごろから6世紀の終わりごろまで、200年にわたって造られ続けたようです
4世紀の終わりごろといえば、中国の歴史書に倭の五王の記録が残されるよりちょっと前ですし、6世紀の終わりごろといえば、聖徳太子の活躍するほんの少し前、蘇我と物部の争いがあった頃です
新沢千塚古墳群の墳墓は、約600基あるそうです
なかでも126号墳の副葬品はすごくて、ガラスの器や、金の装身具、火熨斗など、海外からもたらされたと思われるものが出土しました
この126号墳は、5世紀後半につくられたらしいのですが、5世紀後半は、安康天皇や雄略天皇の活躍した時代、南河内に巨大な前方後円墳がたくさんつくられた時代です
副葬品が大陸由来のものだとすると、奈良盆地には当然ながら湊がないので、難波津あたりから運んできたのでしょう
安全な運搬ルートが確保されていたわけですから、大和と河内は、同じ支配者だったかどうかはわかりませんが、友好な状態をたもっていたことはまちがいありません
126号墳の被葬者は、中国東北部か朝鮮半島から渡来した女性ではないかと考えられているそうですが、群集墳には一族が葬られていると考えるのが一般的でしょうから、新沢千塚古墳群は、渡来系の人たちの墳墓と思われます
副葬品や墳墓の規模から考えて、かなりの実力を持った一族です

この新沢千塚古墳群に沿うように、曽我川が、南から北へ流れています
曽我川の沿岸には古墳時代のものと思われる遺跡がたくさんあります

すこし長くなりましたので、つづきは次回にしたいと思います

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