自分の足で立つ――「利己」を取り戻す
前回、
「みんなと同じ道」を、
少し外れてみるという話を書きました。
いつもと違う時間に動いてみる。
いつもと違う道を通ってみる。
いつもなら見ないものを見てみる。
自分が「普通」だと思っていることに、
「なぜ❓」
と問いかけてみる。
そうすると、
それまで見えていなかったものが、
少しずつ見えてくることがあります。
けれど、
その次に、
もっと難しい問いが出てきます。
「では、自分は何を基準に選ぶのか❓」
みんなと同じだから、
ではない。
誰かに言われたから、
でもない。
では、
自分は、
何を基準に生きるのか。
ここから、
本当の意味で、
自分の足で立つということが始まるのだと思います。
🌱 私の言う「利己」は、少し意味が違う
「利己」という言葉を聞くと、
自分勝手。
自分だけ得をする。
他人より自分を優先する。
そんな意味を思い浮かべる人が多いかもしれません。
でも、
私がここで使っている「利己」は、
少し違います。
私にとっての利己とは、
自分の足で立つこと。
自分で考える。
自分で感じる。
自分で選ぶ。
そして、
選んだ結果を、
自分で引き受ける。
誰かに人生の答えを預けない。
それを、
私は「利己の確立」と考えています。
🧭 自分で選ぶということ
自分で選ぶ。
言葉にすると簡単ですが、
実際には、
それほど簡単ではありません。
私たちは、
氣づかないうちに、
たくさんのものへ判断を預けています。
親
学校
会社
社会
政治
専門家
テレビ
新聞
SNS
そして、
「普通」という言葉
もちろん、
人の話を聞かないということではありません。
専門家の知識が必要なこともある。
経験者から学ぶことも大切です。
助けてもらわなければならない時もある。
問題は、
誰かの意見を聞いたあと、
最後に決める場所が、自分の中に残っているか❓
ということです。
🌿 「聞く」と「預ける」は違う
誰かの意見を聞くことと、
自分の判断を預けることは、
同じではありません。
いろいろな意見を聞く
情報を集める
経験者から学ぶ
考える
感じる
そのうえで、
最後は、
「自分はどうするのか❓」
を決める。
これが、
自分の足で立つということだと思います。
誰かが言ったから、
失敗した。
政府が決めたから、
こうなった。
会社が言ったから、
仕方がなかった。
親に言われたから、
そうした。
もちろん、
自分ではどうにもならないこともあります。
でも、
何でも外側へ理由を預けてしまえば、
自分の人生なのに、
自分がどんどん不在になっていく。
私は、
そこに違和感を感じます。
🪞 自由には、責任がついてくる
以前、
私はこんなことを感じました。
「何を思い、何をするか❓は、僕の自由なんだ。」
当たり前のことのようですが、
この言葉は、
私の中ではかなり重たいものです。
自由というと、
好きなことができる。
嫌なことをしなくていい。
そんな側面だけが語られがちです。
でも、
自分で選ぶということは、
その結果も、
自分の人生として受け取るということです。
自由と責任は、
別々ではない。
だから、
自分の足で立つことには、
少し怖さもあります。
誰かのせいにできなくなるからです。
🌊 恐怖があっても、一歩を出す
自分の足で立つということは、
恐怖がなくなることではありません。
私自身、
怖さを感じることはあります。
先が分からない。
正解も分からない。
これまでと違う道へ進む。
そんな時、
恐怖は出てきます。
でも、
恐怖が消えるのを待っていたら、
いつまでも動けないこともあります。
だから、
時には、
腹をくくる。
怖い。
分からない。
それでも、
「自分はこうする」
と決める。
私がこの十数年で感じてきたのは、
そういう一歩の積み重ねでした。
🌉 誰かについていくことと、自分で歩くこと
私たちは、
強いリーダーを求めることがあります。
この人なら、
何とかしてくれる。
この人についていけば、
大丈夫。
そう思いたくなる時があります。
特に、
社会が混乱している時ほど、
その氣持ちは強くなるかもしれません。
けれど、
ここには一つ、
氣をつけなければならないことがあります。
誰かが正しい方向を示してくれたとしても、
自分で歩かなければ、
結局、
自分の足は育たない。
そして、
その人がいなくなった瞬間、
また誰かを探さなければならなくなる。
それでは、
依存する相手が変わっただけなのかもしれません。
🌳 本当のリーダーは、人を依存させない
だから私は、
これから必要になるリーダーシップは、
今までとは少し違うものになると思っています。
「私について来なさい」
ではなく、
「あなたは、自分の足で立てますか❓」
と問える人。
答えを全部与えるのではなく、
自分で考えられる余白を残す人。
人を自分へ依存させるのではなく、
その人自身が立てるように手助けする人。
そして、
自分自身も、
誰かに答えを預けず、
先に歩いている。
そんな人が、
これから必要になるのではないかと思っています。
🤲 利己は、利他の反対ではない
ここで、
もう一つ大切なことがあります。
「利己」と「利他」は、
反対側にあるものではない。
私は、
そう考えています。
むしろ、
本当の利他へ進むには、
先に利己が確立されている必要がある。
自分の足で立てていないまま、
誰かを助けようとすると、
自己犠牲になったり、
相手から必要とされることで、
自分の価値を確かめようとしたり、
相手を無意識に依存させてしまうこともある。
だから、
まず自分が立つ。
自分を生きる。
自分を満たす。
そのうえで、
余ったものを、
必要なところへ差し出す。
そこから、
利他が始まる。
私は、
そんな順番なのではないかと思っています。
🌱 自分の足で立つ人が増えたら
もし、
一人ひとりが、
自分で考え、
自分で感じ、
自分で選べるようになったら、
社会はどうなるでしょうか。
誰かが強い言葉を発しただけで、
一斉に同じ方向へ動くことも、
少し減るかもしれない。
誰かが敵だと言ったから、
敵として見る。
誰かが正しいと言ったから、
正しいと思う。
そういうことも、
少しずつ減っていくかもしれません。
自分で立っているからこそ、
自分と違う人が立っていることも、
認められる。
ここに、
次の段階があります。
🌿 違うまま、共に生きる
大切なのは、
みんなが同じ考えになることではありません。
それぞれが、
自分の場所に立つ。
違う考えを持つ。
違う生き方をする。
それでも、
「では、どうすれば一緒に生きられるのか❓」
を考える。
そのためには、
まず、
自分が立っていなければならない。
自分が立っていなければ、
相手へ寄りかかるか、
相手を自分の側へ引っ張ろうとしてしまいます。
だから私は、
大調和へ向かう最初の土台は、
意外にも、
一人ひとりの「利己の確立」
なのではないかと思っています。
🌉 橋は、自分の足で渡る
《二つの世界をつなぐ橋》は、
誰かに運んでもらう橋ではありません。
私は、
私の橋を渡る。
あなたは、
あなたの橋を渡る。
途中で、
同じ景色を見ることもあるでしょう。
一緒に歩くこともあるでしょう。
助け合うこともあるでしょう。
でも、
最後に自分の足を動かすのは、
自分です。
それが、
この橋の出発点なのだと思います。
次回
第3話
本質へ立ち返る――「思い出す」ということ
自分の足で立とうとした時、
次に出てくる問いがあります。
「では、自分とは何なのか❓」
新しい答えを探す前に、
もしかすると、
私たちは、
ずっと前から知っていたものを、
思い出す必要があるのかもしれません。
次回は、
「本質へ立ち返る」ということについて、
考えてみます。
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