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人はなぜ“ありえない存在”に魅了されるのでしょうか?

ドラゴンやユニコーンといった伝説上の生き物は、ただの想像の産物ではなく、時代や文化、そして人間の恐れや願いの投影とも言われています

現代の科学では証明されていないものの、かつて多くの人が「本当にいる」と信じていた“伝説の生き物”たち

日本と世界に伝わる代表的な5つの存在を取り上げ、それぞれの背景や伝説の真相に迫ってみましょう

① 麒麟(きりん)|中国・日本

「麒麟(キリン)」は、神獣として中国の伝説に登場する存在で、日本にも平安時代以降に伝わりました

現代の首の長い動物“キリン”とは別物で、体は鹿、顔は龍、尾は牛、足には馬の蹄とされ、穏やかで聖なる動物として描かれています

特に有名なのは、麒麟が現れると“その地に賢王が生まれる”という吉兆の象徴

戦国時代の織田信長が、自らを麒麟にたとえていたという逸話もあります

なぜこんな生き物が信じられたのか

その背景には、様々な動物の特徴が混じり合った目撃談や、未知の動物への畏敬の念があったと言われています

② ネッシー(ネス湖の怪獣)|イギリス・スコットランド

世界でも有名な“伝説の生き物”の一つが、ネス湖に棲むとされる怪獣「ネッシー」です

1930年代に撮影された写真をきっかけに、世界中の関心を集めました

ネッシーは首長竜のような姿をしており、一部では「古代の生き残りではないか」と考えられてきました

実際に、ネス湖では未確認生物(UMA)の調査が何度も行われていますが、決定的な証拠は見つかっていません

とはいえ、地元の人々や観光客による目撃証言が絶えず、現代においても“いそうな気がする”という想像力をかき立てる存在です

③ 天狗(てんぐ)|日本

天狗は、日本古来の伝承に登場する山の妖怪・神様のような存在です

赤い顔に長い鼻、背中には羽があり、空を飛び、神通力を持つとされます

京都・鞍馬山や高尾山など、各地に天狗伝説が残っており、中には「剣術を授けた」「悪人を懲らしめた」といったヒーロー的な逸話も

また、天狗は仏教や修験道とも深く関わりがあり、“修行の守護者”としても信仰されました

その姿は人間と自然の境界をまたぐ存在として描かれ、人間の力では到底及ばない“自然の力”への畏敬の念が込められています

④ ドラゴン(龍)|世界各地

ヨーロッパや中国、日本など、世界各地に存在する「ドラゴン」は、まさに“伝説の生き物”の代名詞

火を吹く、空を飛ぶ、財宝を守る──その能力や性格は地域によって異なります

中国では皇帝の象徴として神聖視され、日本でも「八岐大蛇」や「龍神信仰」として多くの神社に祀られています

一方、ヨーロッパでは聖ジョージがドラゴンを倒す話が有名で、悪の象徴として描かれることも

恐怖と畏敬、破壊と再生、両面を併せ持つ存在だからこそ、時代を越えて人々を惹きつけてきたのかもしれません

⑤ ユニコーン(一本角の馬)|ヨーロッパ

ユニコーンは、西洋の伝説に登場する白い馬の姿をした神秘的な存在
額に一本の角が生え、純粋で清らかな心を持つ者の前にしか姿を現さないと言われています

中世ヨーロッパでは聖なる生き物とされ、その角は“あらゆる毒を無効化する”と信じられていました

実際には、ナワール(イッカク)の牙などが“ユニコーンの角”として高値で取引されていた歴史もあります

ユニコーンは幻想的な存在として、現代でもアートやキャラクターに多用されるなど、ファンタジー世界の象徴として人気を集めています

おわりに

伝説の生き物たちは、ただの想像上の産物ではなく、人々の文化や信仰、そして自然への畏敬が生み出した“心の投影”でもあります

それぞれの存在には、目撃談や記録、象徴的な意味が込められており、私たちの想像力と好奇心を今もなお刺激し続けています

現実と幻想の境界線を歩くような魅力を持つ、伝説の生き物たち。あなたは、どの存在に心惹かれましたか?

(この記事はFUNDOの記事で作りました)

人はなぜ“ありえない存在”に魅了されるのでしょうか?

ドラゴンやユニコーンといった伝説上の生き物は、ただの想像の産物ではなく、時代や文化、そして人間の恐れや願いの投影とも言われています

現代の科学では証明されていないものの、かつて多くの人が「本当にいる」と信じていた“伝説の生き物”たち・・・


これら「幻獣」や「伝説の生き物」などの多くは複数の動物や特徴を持った「合体獣」です


伝説の生き物たちは、ただの想像上の産物ではなく、人々の文化や信仰、そして自然への畏敬が生み出した“心の投影”でもあります

それぞれの存在には、目撃談や記録、象徴的な意味が込められており、私たちの想像力と好奇心を今もなお刺激し続けています

現実と幻想の境界線を歩くような魅力を持つ、伝説の生き物たち。あなたは、どの存在に心惹かれましたか?


 

 


竜といった想像上の生き物や、古今東西の文学作品に登場する不思議な存在をめぐる120のエッセイを紹介
古今東西の幻獣を掲載

「キトラ古墳」は、奈良県明日香村に所在する古墳である

1972年に極彩色壁画が確認された「高松塚古墳」と並び、1983年に石室内のファイバースコープ調査で同様の壁画が見つかったことで注目を集めた

現在までに、こうした本格的な彩色壁画が確認されている古墳は、この2基のみである

壁画の存在が明らかになると、考古学界だけでなく一般社会からも大きな関心が寄せられた

本稿では、「キトラ古墳」の構造や壁画の特徴、そして被葬者の可能性について考察する

「キトラ古墳」の墳丘と石室構造

「キトラ古墳」は、安倍山から東西に延びる南斜面を削平した平坦地に築造されている

墳丘は、2~3cmの厚さに積んだ土を搗き固める版築工法を施し、テラス状の下段をもつ二段築盛の円墳である

その規模は、下段の直径が13.8m、高さ0.9m、上段の直径が9.4m.、高さ2.4m
同じ壁画古墳の「高松塚古墳」の直径20m、高さ9.5mと比べると、半分までとはいかないが小規模であることがわかる

築造時期は、7世紀(600年代)末~8世紀(700年代)初頭頃で、「高松塚古墳」よりも先行して造られた

しかし、その差はせいぜい10年前後と考えられている

埋葬施設は、二上山の凝灰岩の切石を組み上げた横口式石槨で、墳丘中央に設けられていた

石槨には直方体に加工した切石が使われ、天井石には約17cmの屋根形のくり込みを設ける
その内容は、床石4、扉石1、奥壁2、天井石4、西側3、東側4の計18個を数える

石槨内部の広さは奥行約2.4m、幅約1.0m、高さ約1.2mで、この点は「高松塚古墳」とほぼ同規模である

石槨内の天井・側壁・床面の全面に厚さ数mmの漆喰が塗られ、その白い漆喰面に、四神や十二支、天文図などの極彩色壁画が描かれていた

「キトラ古墳」に描かれた色彩壁画

石槨内に描かれた壁画は、北壁に玄武・十二支、東壁に青龍・十二支、南壁に朱雀、西壁に白虎・十二支
そして天井に天文図、日像・月像という構図になる

玄武、青龍、朱雀、白虎の四神は、天の四方を司る神獣とされる

玄武(北壁)は冬の季節を象徴し、色は黒があてられ、青龍(東壁)は春の季節を象徴し、青があてられる

そして、朱雀(南壁)は夏の季節を象徴し、色は赤があてられ、白虎(西壁)は秋の季節を象徴し、白があてられる

四神の下には、動物の頭と人間の体で十二支を表した獣頭人身の十二支が描かれる

北壁中央の子から時計回りに、方位に合わせて各壁に3体ずつ計12体が配置されていたと考えられるが、現在確認できるものは、子、丑、寅、午、戌、亥の6体である

天井中央部には、「キトラ天文図」と称される天文図が描かれている
天井の東西にある斜面部分には、東側に金箔で日像が、西側には銀箔で月像が表現されている

この天文図は、天の北極を中心とした円形の星図で、360個以上の星々が金箔であしらわれ、朱線によってそれらを結んだ中国の星座は、現在のところ74座が確認されている

キトラ天文図の大きな特徴は、朱線で描かれた4つの大円である

内側から順に「内規」「赤道」「外規」とされる3つの同心円に加え、北西にずれたもう一つの円は「黄道」を示す

これらの構成から、観測地は北緯34度付近の中国・長安周辺と推定されており、本格的な中国式星図としては世界最古の例といわれる

なお、北緯34度という緯度は「太陽の道(レイライン)」とも呼ばれ、神社をはじめ多くの聖地がこの線上に位置すると考えられている
この点もまた、尽きることのない興味をかき立てられるのではないだろうか

「キトラ古墳」から出土した遺物

石槨内からは、被葬者が納められていた「木棺」の部材や飾金具、副葬品である「刀装具」「玉類」などが出土した

「木棺」の部材として木質部が腐食し、内外面に塗った漆の層の幕だけになったものが見つかっている
断片の多くは黒漆を塗り重ねたもので、一部には水銀朱が塗られているものもある

ここから分かることは、棺はいわゆる「漆塗木棺」で、棺の内面は朱で塗られていた

斉明天皇陵である牽牛子塚古墳から出土した、麻布を漆で何重にも貼り重ねてつくった「夾紵棺(きょうちょかん)」よりは、ランクが落ちるが最高級の柩と言っても差し支えないだろう

この木棺に付属する金具に、金銅製飾金具1点と銅製釘隠5点、金銅製板状金具1点がある

大刀に関連するものでは、金線で直線とS字文を象嵌した鉄地銀張金象嵌帯執金具や刀装具、鉄製の刀身の断片が見つかっていることから、銀製大刀と鉄製太刀の二振りの大刀が納められていた可能性が高いとされる

また玉類では、直径8.5~9.5mmのほぼ球形で穿孔がある琥珀玉や、直径3~4mm程度のガラス小玉などがあり被葬者の枕の一部であった可能性がある

「キトラ古墳」の主な出土品は、2018年に重要文化財に指定された

人骨片は、石槨内から約15点出土している
左右の上顎骨・右頬骨や犬歯・中切歯・側切歯・第一臼歯などがある

いずれも重複する骨の部位がないことから、一人の遺骨の可能性が考えられ、40~60歳代の熟年男性の可能性が高いと考えられる

「キトラ古墳」の被葬者は誰だ

では、最後にまとめとして「キトラ古墳」の被葬者について考えてみよう

この古墳に葬られた人物は、横口式石槨、漆塗木棺、銀製と見られる大刀などの副葬品から、7世紀末から8世紀初頭にかけての天皇の皇子クラスに相当する人物であった可能性が濃厚である

古墳の場所は、藤原京朱雀門と天武持統合葬陵(野口王墓古墳)を繋いだ延長線上の、いわゆる“聖なるライン(ゾーン)”に近い

そのことから、被葬者候補としては、天武天皇の皇子である高市皇子(第1皇子・696年没)、忍壁皇子(第4皇子・705年没)、長皇子(第7皇子・715年没)、弓削皇子(第9皇子・699年没)などが挙げられている

しかし筆者は「キトラ古墳」の被葬者として、これら天武天皇の諸皇子ではなく、天智天皇の皇子である川島皇子(第2皇子・691年没)を強く推したい

川島皇子といえば「キトラ古墳」から北西に約2kmの位置にある「マルコ山古墳」の有力な被葬者候補としても知られている

「マルコ山古墳」は、その築造時期が7世紀末から8世紀初めにかけてであり、「キトラ古墳」とほぼ同時期であることに加え、埋葬施設として採用されている横口式石槨の構造も非常に類似している

ただし、問題となるのは、その墳形が六角形という特異な形状である点だ

7世紀末から8世紀初めは、古墳時代の終末期にあたるが、この時期の天皇陵は墳形が方墳から八角形墳へと移行している

たとえば、飛鳥時代後半期の天皇陵には、第34代舒明天皇陵(段ノ塚古墳)、第35・36代皇極・斉明天皇陵(牽牛子塚古墳)、第38代天智天皇陵(御廟野古墳)、第40・41代天武・持統天皇合葬陵(野口大墓古墳)、第42代文武天皇陵(中尾山古墳)があるが、これらはすべて八角形墳であり、御廟野古墳を除いて、いずれも奈良県の飛鳥地方に所在している

このような状況の中で「マルコ山古墳」は飛鳥地方にある唯一の六角形墳であり、その点において極めて異例の存在といえる

川島皇子を「マルコ山古墳」の被葬者とする説の根拠の一つに、天武持統朝の皇太子・草壁皇子のライバルであった大津皇子を、その密告によって排除できたことに対する、持統天皇の評価があったとされる

そしてその功績のゆえに、天皇陵である八角形墳に準ずる六角形の墳墓に葬られたという説もある

しかしそうであるならば、六角形墳の被葬者は天皇に準ずる高い身分と考えるのが妥当であり、川島皇子よりもふさわしい人物が他にいるのではないだろうか

天武朝における皇子たちの序列は、草壁皇子、大津皇子、高市皇子の順であった
686年に大津皇子が処刑され、689年に草壁皇子が薨去した後、持統朝において最も重きをなしたのは、太政大臣となった高市皇子であった

さらに「マルコ山古墳」の被葬者を川島皇子とする有力なもう一つの根拠としては、柿本人麻呂が詠んだ挽歌によって、彼が越智野に葬られたことがうかがえる点が挙げられる

ただし、越智野とは現在の奈良県高市郡高取町の北部から明日香村西部にかけての低丘陵地帯と考えられており、この範囲には「キトラ古墳」も含まれる

また「キトラ古墳」といえば、「高松塚古墳」と同様に極彩色の壁画が描かれていることで知られている

そのため、被葬者は非常に高い身分の人物であると考えられがちである

しかし、当時の最高権力者であった天武・持統天皇の合葬陵や、草壁皇子の真陵とされる束明神古墳には、壁画は描かれていない

そうであるならば、「キトラ古墳」や「高松塚古墳」のような、中国文化の強い影響を受けた壁画古墳の被葬者は、律令制度など中国を模範とした事業に深く関わった人物であったと考える方が自然であろう

川島皇子は、忍壁皇子とともに国史編纂の大事業を主宰した人物であり、大宝律令の筆頭編纂者である忍壁皇子を補佐し、律令編纂にも関与していた可能性が高い

「マルコ山古墳」が川島皇子の墳墓でないとすれば、越智野に葬られたという記録から見ても「キトラ古墳」こそが、川島皇子の墓として最もふさわしいといえる

その裏付けとして、「キトラ古墳」「マルコ山古墳」「高松塚古墳」の墳丘規模についても触れておきたい

同時期に築造された古墳であれば、その規模は通常、被葬者の地位や功績に相応しいものとなる
「キトラ古墳」の墳丘は約14m、「マルコ山古墳」は約24m、「高松塚古墳」は約20mである

すなわち、規模の順に並べると「マルコ山古墳」→「高松塚古墳」→「キトラ古墳」となる

ややネタバレになってしまったが、「マルコ山古墳」と「高松塚古墳」の被葬者については、また別の機会に考察することとしたい

ただ「キトラ古墳」については、最終的な官位が高市皇子を上回ることのなかった「川島皇子の墳墓」であると考えるのが妥当ではないだろうか

※参考文献
小笠原好彦著 『検証 奈良の古代遺跡』 吉川弘文館刊
山本 忠尚著 『高松塚・キトラ古墳の謎』 吉川弘文館刊
文:写真/高野晃彰 校正/草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「キトラ」は「高松塚」と並んで世紀の発見の一つだと思う

当時の人々の生活観、思想観、宇宙観などがうかがえるからだ

しかし「キトラ古墳」は墓であり、誰が葬られたかも気になる

本記事では川島皇子としている


「キトラ古墳」の被葬者は誰だ

では、最後にまとめとして「キトラ古墳」の被葬者について考えてみよう

この古墳に葬られた人物は、横口式石槨、漆塗木棺、銀製と見られる大刀などの副葬品から、7世紀末から8世紀初頭にかけての天皇の皇子クラスに相当する人物であった可能性が濃厚である

古墳の場所は、藤原京朱雀門と天武持統合葬陵(野口王墓古墳)を繋いだ延長線上の、いわゆる“聖なるライン(ゾーン)”に近い

そのことから、被葬者候補としては、天武天皇の皇子である高市皇子(第1皇子・696年没)、忍壁皇子(第4皇子・705年没)、長皇子(第7皇子・715年没)、弓削皇子(第9皇子・699年没)などが挙げられている

しかし筆者は「キトラ古墳」の被葬者として、これら天武天皇の諸皇子ではなく、天智天皇の皇子である川島皇子(第2皇子・691年没)を強く推したい

川島皇子といえば「キトラ古墳」から北西に約2kmの位置にある「マルコ山古墳」の有力な被葬者候補としても知られている

「マルコ山古墳」は、その築造時期が7世紀末から8世紀初めにかけてであり、「キトラ古墳」とほぼ同時期であることに加え、埋葬施設として採用されている横口式石槨の構造も非常に類似している

ただし、問題となるのは、その墳形が六角形という特異な形状である点だ

7世紀末から8世紀初めは、古墳時代の終末期にあたるが、この時期の天皇陵は墳形が方墳から八角形墳へと移行している

たとえば、飛鳥時代後半期の天皇陵には、第34代舒明天皇陵(段ノ塚古墳)、第35・36代皇極・斉明天皇陵(牽牛子塚古墳)、第38代天智天皇陵(御廟野古墳)、第40・41代天武・持統天皇合葬陵(野口大墓古墳)、第42代文武天皇陵(中尾山古墳)があるが、これらはすべて八角形墳であり、御廟野古墳を除いて、いずれも奈良県の飛鳥地方に所在している

このような状況の中で「マルコ山古墳」は飛鳥地方にある唯一の六角形墳であり、その点において極めて異例の存在といえる

川島皇子を「マルコ山古墳」の被葬者とする説の根拠の一つに、天武持統朝の皇太子・草壁皇子のライバルであった大津皇子を、その密告によって排除できたことに対する、持統天皇の評価があったとされる

そしてその功績のゆえに、天皇陵である八角形墳に準ずる六角形の墳墓に葬られたという説もある

しかしそうであるならば、六角形墳の被葬者は天皇に準ずる高い身分と考えるのが妥当であり、川島皇子よりもふさわしい人物が他にいるのではないだろうか

天武朝における皇子たちの序列は、草壁皇子、大津皇子、高市皇子の順であった
686年に大津皇子が処刑され、689年に草壁皇子が薨去した後、持統朝において最も重きをなしたのは、太政大臣となった高市皇子であった

さらに「マルコ山古墳」の被葬者を川島皇子とする有力なもう一つの根拠としては、柿本人麻呂が詠んだ挽歌によって、彼が越智野に葬られたことがうかがえる点が挙げられる

ただし、越智野とは現在の奈良県高市郡高取町の北部から明日香村西部にかけての低丘陵地帯と考えられており、この範囲には「キトラ古墳」も含まれる

また「キトラ古墳」といえば、「高松塚古墳」と同様に極彩色の壁画が描かれていることで知られている

そのため、被葬者は非常に高い身分の人物であると考えられがちである

しかし、当時の最高権力者であった天武・持統天皇の合葬陵や、草壁皇子の真陵とされる束明神古墳には、壁画は描かれていない

そうであるならば、「キトラ古墳」や「高松塚古墳」のような、中国文化の強い影響を受けた壁画古墳の被葬者は、律令制度など中国を模範とした事業に深く関わった人物であったと考える方が自然であろう

川島皇子は、忍壁皇子とともに国史編纂の大事業を主宰した人物であり、大宝律令の筆頭編纂者である忍壁皇子を補佐し、律令編纂にも関与していた可能性が高い

「マルコ山古墳」が川島皇子の墳墓でないとすれば、越智野に葬られたという記録から見ても「キトラ古墳」こそが、川島皇子の墓として最もふさわしいといえる

その裏付けとして、「キトラ古墳」「マルコ山古墳」「高松塚古墳」の墳丘規模についても触れておきたい

同時期に築造された古墳であれば、その規模は通常、被葬者の地位や功績に相応しいものとなる
「キトラ古墳」の墳丘は約14m、「マルコ山古墳」は約24m、「高松塚古墳」は約20mである

すなわち、規模の順に並べると「マルコ山古墳」→「高松塚古墳」→「キトラ古墳」となる

ややネタバレになってしまったが、「マルコ山古墳」と「高松塚古墳」の被葬者については、また別の機会に考察することとしたい

ただ「キトラ古墳」については、最終的な官位が高市皇子を上回ることのなかった「川島皇子の墳墓」であると考えるのが妥当ではないだろうか


私は誰が葬られたかはわからないが、気にはなる
解明されることがあるか!?


 

 


高松塚・キトラ古墳は世紀の発見だと思う
しかもどちらも1970年以降の比較的「最近」の発見だ

科学技術が進歩した現代でも、なお説明のつかない“怪現象”が日本各地で語り継がれています

偶然や錯覚では説明しきれない、不思議な体験や目撃情報

実際に報道されたり、研究対象になったりしたにもかかわらず、現在も真相不明のままとなっている「日本の怪現象」を5つ紹介します


① 東京都・三軒茶屋のポルターガイスト現象

東京都世田谷区の三軒茶屋にある某映像制作会社の事務所では、長年にわたりポルターガイスト現象が目撃されてきました

夜間無人のはずの室内で人影が動く、電源を切ったPCが突然起動する、撮影した映像に謎の声が入り込むなど、怪現象が頻発

とくに注目を集めたのは、警備カメラに記録された“誰もいない廊下に現れる黒い影”

この映像はネット上で拡散し、心霊専門家の調査も行われましたが、原因は特定されず「残留思念」や「建物自体の因縁」が噂されることに

② 宮城県・石巻市の「震災タクシー幽霊」体験談

東日本大震災から数か月後、宮城県石巻市のタクシー運転手 7人 が「津波で消えた住宅地まで客を乗せ、到着すると姿が消えた」と証言

聞き取りは東北学院大・金菱清ゼミが2012〜14年に実施し、調査対象約100人のうち 7人が体験談を語った
無賃乗車台帳には 560円 の未収記録が1件残存

心理学・社会学の見地では、深い喪失体験が引き起こす“投影”や“共同幻想”と解釈しうる一方、メーター記録・台帳といった物的痕跡が残るため、超常現象説を完全に否定する研究も現れていません
現在も追加ヒアリングが続き、真相は不明のままです

③ 岐阜県・富加町の幽霊団地事件

岐阜県加茂郡富加町のとある団地では、2000年代初頭に住民から「夜な夜な階段を駆け上がる音がする」「部屋の電気が勝手につく」といった証言が相次ぎ、新聞やテレビでも報道されました

自治体も調査に乗り出しましたが、原因は不明

霊能者を招いてのお祓いも行われましたが効果は限定的で、住民の転出が続き、最終的には団地の一部が取り壊されました

現在も、ネット上では「廃団地の怪談」として語り継がれています

④ 茨城県・虚舟(うつろぶね)事件

1803年、茨城県の海岸(当時の常陸国)に漂着した“虚舟”と呼ばれる謎の船と、その中にいた異国の女性の記録が、日本の史料『兎園小説』や『梅翁随筆』などに残されています

舟は丸型で、鉄やガラスのような未知の素材で作られ、文字が刻まれていたと言われています

女性は話しかけても全く通じない言語を話し、手に何かを大切そうに抱えていたとか

これが古代のUFO遭遇記録なのではないかとする説もあり、現代でも“日本最古の宇宙人遭遇事件”として紹介されることがあります

⑤ 北海道・岩見沢の「阿菊人形」

北海道岩見沢市の寺院に保管されている「阿菊人形」は、死別した少女の形見として供養されたもの

その後、なぜか髪の毛が伸び続けるという現象が観測され、現在もその様子が確認できると言われています

人形の髪は専門機関によって人間のものと同定され、切ってもまた伸びるとの証言も

これは「生者の想念が人形に宿った」事例として心霊研究者の間で知られ、テレビ番組でもたびたび特集されました

おわりに

“見えないもの”は、果たして本当に存在しないのでしょうか?

現代の科学では説明がつかないこれらの現象の中には、いつか理論によって明かされるものもあるかもしれません

しかし、今この瞬間も、誰かがどこかで「説明のつかない体験」をしているかもしれないのです

あなたの周りにも、そんな“気配”はありませんか?

(この記事はFUNDOの記事で作りました)

科学技術が進歩した現代でも、なお説明のつかない“怪現象”が日本各地で語り継がれています

偶然や錯覚では説明しきれない、不思議な体験や目撃情報

実際に報道されたり、研究対象になったりしたにもかかわらず、現在も真相不明のままとなっている「怪現象」があります

“見えないもの”は、果たして本当に存在しないのでしょうか?

現代の科学では説明がつかないこれらの現象の中には、いつか理論によって明かされるものもあるかもしれません

しかし、今この瞬間も、誰かがどこかで「説明のつかない体験」をしているかも・・・


 

 


超常怪奇現象は、いつ、どこで、どのように起きるのか?
サイコキネシス(念動力)やエクトプラズム、ポルターガイスト、人狼、バミューダ・トライアングル、ツタンカーメンの呪い、夢の男、異世界など18もの超常怪奇現象を目撃者の視点でマンガ化!
もし、自分の身に起きたら・・・?と読者の想像をかきたてるシーンを臨場感たっぷりに描き、わかりやすく伝えます
さらに、解説ページには関連写真も多数収載し、リアリティを補強します
オカルト雑誌「ムー」厳選の「怪奇現象」

熊本県球磨郡水上村にある寺院「生善院(しょうぜんいん)」は、山門脇に狛犬ならぬ「狛猫」がいる寺として知られている

2匹の狛猫が守る山門をくぐれば、本堂や観音堂周辺にも猫の置物が配置されており、同寺は「熊本の猫寺」と呼ばれ、地元熊本だけでなく全国の愛猫家に親しまれている

日本では、猫と寺院はネズミ駆除や縁起担ぎの縁で古くから結びつきが強く、全国各地に「猫寺」は存在しているが、生善院と猫の関係はその中でも一際異彩を放っている

何を隠そうこの生善院は、猫を使った恐ろしい呪詛を鎮めるために建立された寺院とされているのだ

熊本の猫寺「生善院」の建立にまつわる”呪いの伝説”について掘り下げていきたい


肥後人吉で起きた相良の後継者騒動

生善院の開基である相良頼房/長毎(さがら よりふさ/ながつね)は、肥後の戦国武将・相良義陽(さがら よしひ)の次男として、室町幕府が滅亡した翌年の1574年に生まれた人物である

頼房の父である義陽は、長らく島津氏と対立して争っていたが、1581年には島津氏に降伏し、相良家はその支配下に置かれた

その当時幼かった頼房は、2歳上の兄・忠房とともに人質として島津氏に差し出された
また、父・義陽は同年に島津義弘の命で出陣した「響野原の戦い」で、かつての盟友・甲斐宗運の家臣に討ち取られて戦死している

当主・義陽の死後、家督は長男・忠房(当時10歳)が継ぐことになった
しかし、かねてより気性の荒さを理由に一門から遠ざけられていた義陽の弟・相良頼貞が、これを好機とみて家督相続を狙い、挙兵に踏み切った

頼貞の謀反とも言える挙兵によって生じた相良家の後継争いは、名臣として知られる家老・深水長智たちの尽力により鎮められた
だがその後、頼貞の挙兵に加担していたとされる2人の名が、忠房の耳に入ることとなる

その2人こそが、相良氏家臣にして肥後国湯山地頭・湯山城主であった湯山宗昌(ゆやま むねまさ)と、その実弟である僧・盛誉(せいよ)であった

無実の僧侶が冤罪で殺される

謀反に失敗した頼貞が日向国へ逃れた翌年の1582年、湯山宗昌とその弟・盛誉が謀反に加担していたという報告が、当主の忠房のもとに届けられた

だが実際には宗昌と盛誉は、義陽の死後に多良木を訪れた頼貞を弔問し、世間話をしただけだったという
しかしこの事実が捻じ曲げられ、宗昌を良く思っていなかった人物に利用されたのだ

身に覚えのない宗昌と盛誉は、盛誉が院主を務めていた岩野の普門寺に籠もって謹慎していた
ところが、忠房の姉が重臣たちと協議のうえで2人の処罰を決断し、米良地方の武将・黒木千右衛門を総大将として、討伐隊を普門寺へと差し向けてしまった

この動きを知った相良家の家老・深水長智は、「僧侶である盛誉を殺してしまっては取り返しがつかぬ」と懸念し、討伐を中止させるべく、家臣の犬童九介を伝令として急ぎ普門寺へと差し向けた

しかしこの犬童九介は、道中で立ち寄った築地村(現在の球磨郡あさぎり町)で、反宗昌派の者による策略にはまり、水と偽って酒を飲まされて酩酊し、そのまま眠り込んでしまった
そのため、討伐中止の命は黒木らに届かず、討伐隊はそのまま普門寺に到着してしまったのである

1582年4月18日(旧暦3月16日)、黒木は宗昌と盛誉がこもる普門寺に夜襲をかけた

武将であった宗昌は、辛うじて日向国への逃亡に成功した
しかし寺に残った盛誉の弟子たちは徹底的に討たれ、盛誉自身は道場で読経していたところを背後から斬首された挙句、普門寺には火が放たれた

盛誉が無残に殺されてしまったことで、宗昌と盛誉の実母である玖月善女(くげつぜんにょ)は、相良家を深く恨んだ
愛しい息子を無実の罪で殺された母の恨みたるや、生半可なものではなかった

伝令役の犬童九介は、自らの責任をとって切腹したものの、それで玖月善女の怨念が晴れることはなかった

彼女はやがて、相良家への復讐の念を胸に秘め、球磨・米良の霊峰・市房山に籠もることとなる

息子を殺した相良家に呪詛をかけた玖月善女

古くから霊山として崇められていた市房山には、玖月善女(くげつぜんにょ)が籠る以前からすでに、市房神社(市房山神宮)が鎮座していた

盛誉が院主であった普門寺も、もともとは市房神社の別当寺だった

玖月善女は、市房神社に愛猫の「玉垂(たまたれ)」を伴って籠もり、21日間にわたる断食を敢行した

やがて自らの指を噛み切って流した血を神像に塗りつけ、さらにその血を玉垂にも舐めさせたうえで、自らと共に黒木千右衛門や相良家を祟るよう猫に言い含めたという

そして最後は、玉垂を抱いたまま、湯山の茂間が淵(もまがふち)に身を投げ、命を絶ったと伝えられている

それからまもなく玖月善女の怨念が実を結んだのか、相良家やその周辺で数々の異変が起こり始めた

盛誉を殺害した黒木千右衛門は、毎晩のように猫の霊にうなされながら狂死したばかりか、相良家当主の忠房の夢にも「化け猫」が現れるようになったとされる
また、詳細は不明だが、忠房の腹違いの長姉・虎満は、事件から半年後の1582年9月に17歳で死没している

そして忠房も、満12歳の頃に疱瘡を患い、祈祷の甲斐なく急逝してしまった

こうして兄・忠房の跡を継いだ頼房は、忠房の死から12年後の15971597年、朝鮮出兵から帰国したのち、球磨郡の総社と定めた青井阿蘇神社に祠を建立し、呪詛を鎮めるために慈悲権現を祀った

しかし、それでも相良家の不運は途絶えなかった

頼房の弟・長誠は病に伏し、長い療養の末に1610年に死去
さらに、病弱だった三姉妹のうち三番目の千代菊も1615年に世を去り、今度は次姉・千満が原因不明の体調不良に悩まされるようになった

そこで頼房は、1625年、かつて普門寺があった跡地に「千光山生善院」を建立し、阿弥陀如来と千手観音を祀った
さらに、盛誉に「権大僧都法院」の号を贈り、その命日には当主自らが領民とともに同寺を参詣することを定めた

このような頼房の苦心の策により、ようやく玖月善女と玉垂の呪いは鎮まったという

時を経て怨念の地から聖地となった人吉・球磨地域

肥後人吉の大名・相良家を巡って起きたこの「化け猫騒動」は、頼房が供養を行った生善院や青井阿蘇神社のみならず、人吉周辺の数多くの寺社にもその痕跡を残している

玖月善女が玉垂とともに籠った「市房山神宮」、玖月善女が玉垂と入水した茂間が淵近くに鎮座する「茂間ヶ嵜水神社(もまがさきすいじんじゃ)」、盛誉と玖月善女の板碑が祀られた「吉祥院」なども、相良の化け猫騒動と所縁のある寺社だ

生善院がある水上村含む熊本の人吉・球磨地域はもともと名高い温泉郷であったが、人気アニメ『夏目友人帳』の聖地となり、さらに注目を集めている
このアニメの登場人物に、猫の姿をしたキャラクターがいることも非常に興味深い

飼い主の怨念の道連れとなった哀れな猫・玉垂は、今や人の願いを叶えてくれるありがたい猫として崇められ、愛されている

人吉・球磨を訪れる機会があれば、生善院に立ち寄ってみてはいかがだろうか

参考文献
八岩まどか (著) 『猫神様の散歩道』
千光山生善院公式HP
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

熊本県球磨郡水上村にある寺院「生善院(しょうぜんいん)」は、山門脇に狛犬ならぬ「狛猫」がいる寺として知られている

2匹の狛猫が守る山門をくぐれば、本堂や観音堂周辺にも猫の置物が配置されており、同寺は「熊本の猫寺」と呼ばれ、地元熊本だけでなく全国の愛猫家に親しまれている

日本では、猫と寺院はネズミ駆除や縁起担ぎの縁で古くから結びつきが強く、全国各地に「猫寺」は存在しているが、生善院と猫の関係はその中でも一際異彩を放っている

何を隠そうこの生善院は、猫を使った恐ろしい呪詛を鎮めるために建立された寺院とされているのだ


猫って身軽で驚異的身体・特殊能力があり、化け猫などの妖怪と化したり、不思議で魅力があります

本記事も猫も絡み祟りの話です


時を経て怨念の地から聖地となった人吉・球磨地域

肥後人吉の大名・相良家を巡って起きたこの「化け猫騒動」は、頼房が供養を行った生善院や青井阿蘇神社のみならず、人吉周辺の数多くの寺社にもその痕跡を残している

玖月善女が玉垂とともに籠った「市房山神宮」、玖月善女が玉垂と入水した茂間が淵近くに鎮座する「茂間ヶ嵜水神社(もまがさきすいじんじゃ)」、盛誉と玖月善女の板碑が祀られた「吉祥院」なども、相良の化け猫騒動と所縁のある寺社だ

生善院がある水上村含む熊本の人吉・球磨地域はもともと名高い温泉郷であったが、人気アニメ『夏目友人帳』の聖地となり、さらに注目を集めている
このアニメの登場人物に、猫の姿をしたキャラクターがいることも非常に興味深い

飼い主の怨念の道連れとなった哀れな猫・玉垂は、今や人の願いを叶えてくれるありがたい猫として崇められ、愛されている

人吉・球磨を訪れる機会があれば、生善院に立ち寄ってみてはいかがだろうか


 

 

 

ネコはネズミを捕り人間の役に立つ面もありますが、他の家畜と違い、かわいいしぐさと気ままな性格で人間に愛された特殊な動物です
人間のパートナーとなったイヌとも違う立ち位置です
更にはいくつかの特殊能力もあり興味深い動物です

20年振りに「キトラ古墳」を訪ねてみようと思った

JR東海の奈良観光キャンペーン「いざいざ奈良」、どうやら最近は“飛鳥推し”のようだ

そのホームページをのぞいてみると、冒頭にはこんな文章が現れる

「飛鳥は歴史の謎に満ちた日本誕生の地。6世紀後半から約100年間、宮都が置かれました。(中略)それまでの価値観を塗り替える一大イノベーションの発信地でした。」

なるほど、飛鳥を言い得て妙な表現である

ちなみに筆者はというと、主に京都や大阪を中心に書籍などの執筆をしているのだが、「関西で一番好きな場所は?」と聞かれたら、迷わず「奈良!」と答える

もちろん、京都や大阪も大好きな街だ
しかし近年は、インバウンドの影響もあってか、どこか落ち着かない雰囲気を感じることが多い

そんなこともあり、出張で京都や大阪での仕事が終わると、夜は奈良へ帰る
つまり、奈良に泊まって、大阪や京都へ通うという、少し変わった出張スタイルを送っている

そこまでしてしまうほど、筆者にとって奈良県は特別な場所なのだ

しかしながら、そんな筆者にも、奈良を訪れた際になんとなく足が遠のいてしまう地域がある

それが、「いざいざ奈良」で、推している飛鳥なのだ

筆者が飛鳥にあまり足を向けなくなった理由は、たったひとつ

あまりにも整備が進みすぎてしまい、かつての“飛鳥(明日香)らしさ”を感じにくくなってしまったからだ

飛鳥という場所は、もともと歴史的な風土が、地形や自然と一体となって形づくられてきた土地だった

現在は駐車場やトイレなども整備され、観光地としてはとても便利になったと思う

雑草をかき分けながら、古墳などの遺跡を探していた昔に比べると、今はずっと見やすくなった

それはそれで、多くの人に飛鳥の魅力を知ってもらうきっかけになるという点では、良いことなのかもしれない

しかし今の飛鳥には、少なくとも四半世紀前には確かに吹いていた“明日香風”はあまり感じられなくなった

訪れる度に、変わっていく飛鳥を見るのは、個人的にとても辛いことだったのである

ところが、あることがきっかけで、それこそ20年振りに壁画古墳として知られる「キトラ古墳」を訪ねてみようと思い立った

国営飛鳥歴史公園の一地区になった「キトラ古墳」

現在の飛鳥は、国土交通省によって、国営飛鳥歴史公園として整備されている

この整備事業では、飛鳥を「高松塚周辺地区」「石舞台地区」「甘樫丘地区」「祝戸地区」「キトラ古墳周辺地区」の5地区に分け、それぞれの地域の特色を生かした公園づくりが進められている

「キトラ古墳」は「キトラ古墳周辺地区」の南端に位置し、その北端には「檜隈寺跡」がある

そして、両者の間には、体験工房や農体験小屋などの施設が設けられている

「キトラ古墳周辺地区」は、特別史跡である「キトラ古墳」を、その周辺の自然環境や田園風景とあわせて一体的に保全するとともに、多くの人が飛鳥の歴史や文化、風土を味わい、ゆったりと過ごせるよう整備を行ったという

ところが筆者としては、どうもこの整備の方向性が本末転倒なのではないかと思えてならない

というのも、開発の進む飛鳥にあっても、少なくとも20数年前までは、「キトラ古墳周辺地区」の風景こそが、まさに“飛鳥の歴史や文化、風土を味わえる”場所に感じられたからである

とりわけ、「檜隈寺跡」がある檜隈地区は、一歩足を踏み入れるだけで、まるで古代朝鮮の村落に迷い込んだような錯覚すら覚えた

檜隈は、応神天皇の時代に東漢氏(やまとのあやし)の祖・阿知使主(あちのおみ)が渡来し、開発・居住した場所である
東漢氏は後に軍事氏族として発展し、崇峻天皇を暗殺した東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)や、その一族である坂上田村麻呂らを輩出している

では、なぜ筆者が20数年ぶりに「キトラ古墳」を訪ねたのか
そのきっかけは、取材でお世話になった後、親しくなったならまちのイタリアンレストランでの出来事だった

カウンターでワイングラスを傾けていた筆者に、奥からシェフが手招きをする
促されるままに席を移ると、そこには東京からツアーで訪れていたというシニアの男女3人組がいて、ちょうどその日訪れたという「キトラ古墳」の話題で盛り上がっていた

彼らと話すうちに、整備された墳丘や壁画を保存する管理施設など、「キトラ古墳」の現在の姿がぼんやりと見えてきた

こうなると、もう居ても立ってもいられない。翌朝には、飛鳥へと車を走らせていたのである

天文図などの5面の壁画は国宝に指定された

「キトラ古墳」は、飛鳥の南部、明日香村大字安倍山にあり、墳丘は低い安倍山の南斜面を平坦に削り整地して築かれている

南側の尾根の先端に古墳を築くという手法は、古墳時代終末期の典型的な特徴だ。整備され、美しく復元された墳丘からは、二段築成の円墳という墳形がよくわかる

また、墳丘の前には古墳についての解説板や、古代の古墳の姿を体感できる地形模型が設置されている

さらに、墳丘のそばには、横口式石槨内に描かれていた四神や十二支、天文図を原寸大で浮き彫りにした金属製の壁画プレート(乾拓板)が設置されており、訪れた人はその壁画を写し取る「乾拓体験」を楽しむことができる

これは、「キトラ古墳」が壁画古墳であることを、否が応でも印象づける工夫で、この日も、親子連れが乾拓板に紙を置き、鉛筆で熱心に壁画を写し取っていた

「キトラ古墳」の壁画は、1983年に発見された

これは、1972年に「高松塚古墳」で壁画が発見されてから11年後のことである

「高松塚古墳」の壁画発見は、大きな考古学ブームを巻き起こした

その影響で、「高松塚」周辺のいわゆる“聖なるライン”付近に点在する未発掘の終末期古墳の中にも、壁画が描かれているものがあるのではないかという憶測が広がった

そうした中、「キトラ古墳」近くの住民から、「高松塚」に似た古墳があるとの情報が寄せられ、「キトラ古墳」の調査が始まった

そして、発掘によるものではなく、横口式石槨に開けられていた盗掘孔からファイバースコープを挿入するという方法で、壁画が発見されたのである

石槨内には、四神、十二支、天文図、日月の壁画が描かれていた

ちなみに四神とは、天の四方を司る神獣で、壁画は対応する方位に合わせて、東壁に青龍、南壁に朱雀、西壁に白虎、北壁に玄武が描かれている

四神の下には、動物の頭と人間の体で十二支をあらわした獣頭人身の十二支が描かれていた

そして、天井には天文図と、東に金箔で太陽が、西に銀箔で月が描かれていた

この天文図は、赤道や黄道を示す円を備えており、本格的な中国式星図としては、現存する世界最古の例といわれる

この壁画5面は、2019年に国宝に指定されている

「壁画体験館 四神の館」は必見の施設

整備された「キトラ古墳」は、想像以上に素晴らしいものだった

そして「キトラ古墳」を訪れたのであれば、壁画古墳について学べる体験型施設「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」は、ぜひ足を運んでいただきたい場所である

この施設には、「キトラ古墳壁画」を保存・管理する壁画保管室や、古墳から出土した副葬品を保管する出土品保管室が設けられている

さらに館内には、実物大の石室レプリカの展示や、壁画に描かれた四神を高精細映像で、実物の最大100倍の大きさまで映し出す4面マルチビジョンなどもある

ここを訪れれば、古墳に関する予備知識がなくても、「キトラ古墳」の貴重さや魅力を十分に学ぶことができる、まさに絶好の施設だと断言できる

キトラ古墳については、まだ語り尽くせたとは言い難い

稿を改めて、墳丘の構造や埋葬施設、壁画の詳細を紹介しつつ、この古墳の被葬者像にも迫っていくつもりである

※参考文献
小笠原好彦著 『検証 奈良の古代遺跡』 吉川弘文館刊
山本 忠尚著 『高松塚・キトラ古墳の謎』 吉川弘文館刊
文:写真/高野晃彰 校正/草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

高松塚・キトラ古墳は世紀の発見の一つだと思っている

壁画が当時の生活観・思想観・宇宙観などをうかがわえるからだ


 

 


高松塚・キトラ古墳は世紀の発見だと思う
しかもどちらも1970年以降の比較的「最近」の発見だ

中国で紡がれてきた神話は、人智を越える存在と交信していた太古の昔の物語や民間伝承と、道教やのちの仏教の影響とが複雑に絡み合っています
多様な文化が混淆する中国の膨大な遺産の中から創造神話、神と仙人、怪物と鬼、霊の物語や伝説を紹介する書籍『[ヴィジュアル版]中国神話物語百科』から「序章」を公開します


◆神仙思想や道教、仏教、民間伝承がミックスした多彩な物語

わたしは、長寿や富や幸運の神々の像を、大切そうにていねいに磨きあげていた祖母のようすをよく覚えている
邪(と悪臭)を払って大事な家族を守るために、火のついたお香を差したりんごが故郷の裏通りのあちこちに置かれていた情景を、鮮やかに思い浮かべることもできる
中国人と神話の結びつきは常に進行形で、世代が変わるたびに新たな展開を見せる
現在も、国としての威信が高まり、歴史が見直されるのに合わせて、神話への関心が再燃しつつある
実際、同国の大きさと国民の多様性を鑑みれば、中国の神話とは、人智を越える存在と交信していた太古の昔の物語やさまざまな民族に伝わる民間伝承と、道教やのちの仏教の影響とが絡み合いながら、常に進化を続けている概念だと言えるだろう


多様な影響

国や文化によっては、このような幅広い思想を同時に受け入れることはできないのかもしれないが、特有の歴史を抱える中国では、心を躍らせる多彩な物語が、矛盾や相容れない物の見方を抱えたまま、珍しいパッチワークのように継ぎ接ぎの形で共存している
本書では、中国の膨大な遺産のなかから、よく知られている、人々に愛されている、文化的に重要である、あるいはたんにおもしろい神話の英雄、神々、伝説、物語を集め、読みやすい順序に並べた
むろん、地域によってそれぞれ異なる物語、呼び名、由来があるため、神話についての知識がある読者なら、自分の知っている話とは違うと感じることもあるかもしれない――だが、それもみな、なにもかもが混ざり合った雑多な中国神話ならではのことである
本書では、最も資料がそろっているバージョンと、北は長春から南は広州まで、わたし自身が中国で暮らしていたときに学んだ話に沿うよう努めた


出典について

本書は中国神話についてわたしが執筆した2作目の本である
前作ではおもに神々の話と、それが現代中国文化でどのように捉えられているかに焦点を当てたが、今回は人間、怪物、霊の話を深く探っていこうと思う
中国の伝説の怪物や幻の魔物の詳細については、以下に挙げるさまざまな古典を参考にした
『聊斎志異』――蒲松齢が収集した話で初版は18世紀――は、民族人類学の初期の作品集である
この学者は賑わう街道脇に文机を置いて座り、火をおこして、通りがかりの人にお茶と休息を提供する代わりに、鬼や霊の話を提供してもらったという
『山海経』――ひとりの著者によるものか多数が記したものかは不明だが、記録として収集されたもの――は、戦国時代と漢王朝のあいだの時期に集められたと考えられている
各地方の風変わりなものごとが記録され、多くの動物、植物、民族が分析、解明されているが、現代人から見ればありふれたものもある
この書物は中国に残っている最古の神話だと考えられている
『淮南子』――紀元前2世紀に貴族の劉安の命で編纂されたもの――は、宇宙論、形而上学、社会秩序を含むテーマを考察する著作集で、大昔の中国の価値観や信仰の概念が詳しくつづられている


共通のテーマ

こうした物語や神話には世界共通のテーマがたくさんあるが、逆に、ここにないと驚く例もあるかもしれない
たとえば、主要な中国神話のいずれにも西洋の神々の没落(ラグナロク)や世界の終わりの決戦(ハルマゲドン)に匹敵する概念は登場せず、むしろ森羅万象や日常生活に重きが置かれている
また、中国には多数の神、英雄、怪物がいて、海、川、洪水、干ばつに関わっている
中国における「水」は制御のきかない大きな要素のひとつで、漁師から農民、将軍から摂政まで、すべての人の生活が水を中心に営まれていたからだ
一方、中国ほどの大きさの国が数千年にわたって分裂や統一を繰り返すとなると、国の安定を維持するにあたって国政術、記録、階層が欠かせない
そのため、神話にも明らかに官僚的なテーマが含まれている
神話には人々の願望や恐怖が反映されている
英雄は社会の理想像、怪物は恐怖心の表れだ
神々や宝には、人々が手に入れたいと望むものが映し出されている
本書が中国神話の概念やパターンの解説になるだけでなく、その裏にある思想を知り、ひいては文化の理解を深めることにつながれば幸いである

[書き手]シュエティン・C・ニー(中国文化研究、翻訳家、ライター)
中国、広州生まれ
11歳のときに家族と英国に移住し、ロンドン大学を卒業
北京の中央民族大学で中国文化について研究
著書に『From Kuanyin to Chairman Mao:An Essential Guide to ChineseDeities(観音から毛沢東まで――中国の神々についての入門書)』がある
彼女がキュレーションし翻訳した中国のSF作品集『Sinopticon』(シノプティコン)』は2022年のBFS(英国ファンタジー協会)賞で最優秀アンソロジーを受賞
現在はロンドン郊外に在住

[書籍情報]『[ヴィジュアル版]中国神話物語百科』
著者:シュエティン・C・ニー / 出版社:原書房 / 発売日:2025年03月11日 /ISBN :4562074965

原書房

(この記事はALL REVIEWSの記事で作りました)

中国神話・伝承などは神仙思想、道教、仏教、儒教、民間伝承などとも深く絡み合っている

神々は多彩、多様で多くの思想・考え方が取り入れられ、時代も反映して「進行形」だ

主要な中国神話のいずれにも西洋の神々の没落(ラグナロク)や世界の終わりの決戦(ハルマゲドン)に匹敵する概念は登場せず、むしろ森羅万象や日常生活に重きが置かれているようだ

また「水」も重視されており、ある意味「水を制するものが天下を制する」ともいえそうだ
水の脅威、畏敬なども感じられる


 

 


古代から中国の人々の願望や恐怖を映しだしてきた神々や英雄、怪物、霊たちのキャラクターとエピソードを図版160点以上とともに紹介する
中国神話などには多種・多様な神々がいる
そして神仙思想、道教、仏教、道教、民間伝承なども絡み合っている

「虚舟」とは、何とも儚げな名前である
江戸時代の常陸国、そのとある浜辺に流れ着いた小舟のこと
記されていたのは曲亭馬琴が編纂した奇談集『兎園小説』(1824年刊行)で、「虚舟の蛮女」と題した怪しげなる話に登場する
面白いのはその形状で、まるでUFOを思わせるような奇妙なものだったからビックリ!
さらにこの「虚舟」なる小舟、日本の発展に大きく寄与したとある人物も乗り込んだことがあるというから、目が離せない代物なのだ
いったい、どういうことなのだろうか?

■江戸時代の常陸国の浜辺に謎の「虚舟」が漂着

 時は、享和3(1803)年2月のことである
舞台は、常陸国のとある浜辺だったとか。どこからやって来たのか定かではないが、浜の人々が沖合に何やら漂うものを発見
引き上げてみて驚いた
長さ三間(約5.5m)という小舟ながらも、まるでお香の入れ物(香盒)のような不思議な形だったからである
下半分は鉄板でしっかりと補強されて頑丈そうだが、上半分に透明な硝子窓がはめ込まれていたという、少々危なっかしい乗り物であった

恐る恐る中を覗き込んでみると、床には敷物が敷かれ、二升(約3.6リットル)ほどの水が入りそうな小瓶や、菓子、肉を練ったような食べ物が置かれていた
さらにじっくりと中を見回して、ビックリ仰天
今まで目にしたこともないような顔立ちの女性がいたからである
蛮女と記しているところから察すれば、おそらく異国の女性だったのだろう

もちろん、言葉が通じるはずもなかった
となれば、浜の人たちの困り果てた様相が思い浮かびそう
外国船が漂着した場合、薪と水を与えて追い返すようにとの「薪水給与令」が発せられたのは文化3(1806)年のこと
その3年前の当時としては、外国船となれば、有無を言わず打ち払うよう通達されていたからである
当然のことながら、無慈悲とは思いながらも、役人に知られては厄介とばかりに、そのまま再び沖合に押し流してしまったことも想像に難くない

ちなみに、その舟と女性の様相は、同書に文章とともに挿絵として記載されている
そこに描かれた小舟は、まるで宇宙から飛んで来たUFOを思わせるような奇妙な形の乗り物であった
もしもそのお話自体が史実だったとすれば、本当にUFOだったのかも…と、勘ぐってしまいたくなってしまうのだ

■インドからやってきた金色姫と養蚕の関係

実はこれと似たようなお話が、つくば市神郡の蚕影神社や神栖市日川の蚕霊神社、日立市の蠶養神社などにも伝わっているので見ておくことにしたい
それが、「金色姫伝説」と名付けられた奇妙な物語である

舞台は常陸国豊浦の湊(日立市の小貝ヶ浜か。神栖市波崎の舎利浜との説も)で、舟の形が繭形の丸木舟だったというのが、前述の『兎園小説』と異なるところ
発見者は漁師の権太夫だったという
権太夫が舟を割ってみると、中から見目麗しい少女が現れた
どうやって言葉を通じさせたのか定かではないが、彼女の語るところによれば、インドの大王の一人娘だったとか
継母にいじめられて悲しむ姿を見かねた父の大王が、娘を桑の木をくり抜いて作った丸木舟に乗せて流したのだとも

この少女の語りを聞いて哀れに思った権太夫、彼女を家に連れ帰って、我が子のように育てた
ただしその甲斐もなく、数年後に病を得て亡くなってしまったというから、何とも儚いお話である

しかし、物語はここからが本題である
驚くことに、その亡骸がいつの間にか繭になった(彼女が持っていた箱の中に蚕の幼虫がいたとする話もある)と続けるのだ
生前の少女から教わっていたように、この繭で糸を紡いで機を織った
それが養蚕の始まりだったとして、物語の幕を下すのである

なるほど、なるほど・・・と、一度は頷いたものの、はたと思い当たることがあって、首を捻ってしまった
確か、日本に養蚕を広めたのは、渡来系氏族・秦氏だったはずでは?ということを思い出したからである

■秦氏と養蚕との関わり合いとは?

秦氏がなぜ養蚕発祥と関わりがあるというのか?
それを知るには、まずは『日本書紀』の応神天皇14年春二月の条から見ていく必要があるだろう
そこに、百済から百二十県の人民を率いた弓月君なる御仁が渡来してきたことが記されている

弓月君といえば、秦氏の祖というのが通説(異説もある)である
4世紀頃に秦国から狗邪韓国(百済あるいは新羅とも)を経由して海を渡ってやって来たという渡来系氏族である
この秦氏の「秦」が機織の「機」を語源としているというのを思い出したのだ
もちろん、秦国の「秦」、朝鮮語の海を言い表す「パダ」、新羅の波旦(ハタン)という地名に由来する等々、諸説が飛び交っていずれが正しいのか明確にはし難いものの、秦氏こそが養蚕を広めた最大の功労者だったという点は間違いないだろう

また、雄略天皇の御代(5世紀後半頃か)にも、興味深い記載がある
秦酒公が、租税として上質の絹をうず高く積み上げたとわざわざ記載しているのも見逃せない
絹織物をふんだんに提供できたわけだから、機織りが秦氏の手がける主要産業の一つだったと理解できるのだ

■秦河勝を祖と仰ぐ世阿弥の『風姿花伝』に記された「うつぼ舟」の謎

さらに興味深いのは、ここからである。それから150年後の聖徳太子こと厩戸王子に仕えていた秦河勝の動向が見逃せないのだ
河勝といえば、主として財政面で太子を補佐
広隆寺(蜂岡寺)を建立したことでも知られる御仁である
その河勝が、何と、「虚舟」に乗ったことがあるというのだから、俄然、身を乗り出してしまうのだ

その逸話が記されているのが、能楽の大成者である世阿弥(観阿弥の子)が著した能の理論書『風姿花伝』(1400年頃成立)である
その「第四神儀云」に、「うつぼ舟」の名が登場
河勝がそれに乗ったという。何はともあれ、その経緯に目を向けてみることにしたい

欽明天皇の御世、大和国を流れる初瀬川が氾濫を起こした時のことである。川上から一つの壺が流れてきたという
それを拾い上げたのが時の天皇であった
手に取って中を見てビックリ!そこに赤ん坊がいたからである
その顔、「柔和にして玉のごとし」というから、何とも可愛いらしい子供だったのだろう

ここで天皇がハタと思い出したのが、かつて見た夢であった
夢の中に神童が現れ、「我こそは大国秦始皇の再誕なり」と言っていたことを思い出したのだ
この子こそ、その時の神童に違いないとして、子に「秦」の姓を与え、さらに初瀬川の氾濫より助かったことにちなんで、「河勝」と名付けたという
成長するに及んで、紫宸殿において舞いを披露させた
それが申楽(猿楽)の始まりだったと続けるのである
河勝が申楽(猿楽)、能楽の祖と言われる由縁である

「虚舟」が登場するのは、その後の記述
河勝が申楽を子孫に伝えた後、摂津国難波浦から「うつぼ舟」に乗って、風に任せて西海へと船出したと記していることに注目!
「うつぼ舟」は「空穂舟」とも書くが、ようするに「虚舟」のことである
その「うつぼ舟」がどのような形状であったのか記していないのが残念であるが、ともあれ、それに乗ってたどり着いたところが、播磨国の坂越(さこし、しゅくし)浦(兵庫県赤穂市)であった

奇妙なことに、河勝が乗り込んだにもかかわらず、浦人が舟を引き上げてみると、中にいたのは人ではなく化人だった
化け物あるいは仏の化身へと姿を変えたというわけである
時には人に憑依して驚かせることもあったが、これを敬って神と崇めるや、今度は奇瑞をなして国が豊かになったというから、何はともあれ、めでたしめでたしというところか

ちなみに、ここに登場する坂越浦とは、坂越湾に面した天然の良港で、瀬戸内往来の重要な中継地であった
皇極天皇3(644)年に、秦河勝が蘇我入鹿の乱を避けて(入鹿との対立が指摘されることも)坂越に流れ着いたことが、同地の大避神社(祭神は大避大神、つまり秦河勝である)に伝わっている
大化3(647)年に河勝が没し、生島に葬られたとも伝えている

この河勝を祖と仰ぐのが前述の世阿弥で、名を秦元清と名乗っていたとか
伏見稲荷大社を建立したのも秦伊侶具で、浄土宗の開祖である法然の母も秦氏
島津義久や長宗我部元親なども、出自が秦氏であったことを明かしている

なお、欽明天皇元年8月の条に、秦人の戸数が7053戸もあったと記されているのも見逃せない
律令下の行政上の単位となる1郷戸の平均が20数人だったことから計算すれば、ざっと15〜20万人もの数になる
古代において最大級の規模を誇る氏族であったことは間違いない
全国31か国80郡に点在して殖産に励んだということから勘案すれば、この氏族が我が国の発展にどれほど大きく寄与したのか、計り知れないものがありそうだ
秦氏の存在は、古代史を語る上でどうしても欠かせないと言うべきだろう
今一度、秦氏に目を向けていただきたいと、強く願うのである

(この記事は歴史人の記事で作りました)

江戸時代にUFOのような「舟」が漂着したとは驚きだ

秦氏と養蚕、出自なども気になる



 

 


江戸時代の奇談、怪談を集めた
いわゆる魑魅魍魎、妖怪などの「世界」を堪能できる

私たちが日常で何気なく使っている綿(コットン)

実は、世界の歴史の流れを大きく左右した素材の一つであるのをご存じでしょうか

特にヨーロッパにおいては、綿の導入と普及が、経済や社会、そして政治にまで多大な影響を与えてきました

今回は、この身近な繊維が人類の歴史にどれほど深いインパクトをもたらしたのか、あらためて振り返ってみたいと思います

羊が生えている!?

時は中世ヨーロッパ
当時の人々は、まるで伝説のような不思議な植物に出会うことになります

それまでヨーロッパにおける織物の原料といえば、羊などの動物の毛が主流でした
いわゆる「毛織物」が一般的であり、衣料といえばウール製品が当たり前だったのです

ところが、あるときヨーロッパにもたらされた新しい織物は、ふんわりと軽く、しかも暖かくて肌触りも良いものでした

それが「綿織物」だったのです

なによりヨーロッパの人々が驚いたのは、綿織物の原料が動物の毛ではなく、植物であるという事実でした

そのため、彼らはこの不思議な植物の姿を想像し、「まるで果実のように、枝先に羊が実る植物があるのだろう」と考えたのです

綿織物の原料となるワタは、インドや中東、中国など、温暖な地域で古くから栽培されてきました

ヨーロッパに綿が初めて伝わったのは紀元前後の地中海貿易によるものとされていますが、本格的に綿織物が普及し始めたのは中世以降のことです
特に、十字軍遠征やイスラム世界との交易を通じて、綿の加工技術が伝えられたことが大きなきっかけとなりました

その頃の綿は高価で珍しい輸入品でした
南イタリアやスペインなどの地中海沿岸地域では、イスラム文化の影響もあり、比較的早い段階で綿の栽培と紡績が行われるようになります
しかし、当初は綿織物の質も安定せず、あくまで補助的な素材として扱われていました

それでも綿には、染色しやすく、軽くて通気性に優れているという特長がありました
そのため次第に、労働者や一般庶民の衣料として受け入れられていきます
なかでもインドから輸入された「キャリコ(更紗)」は、色鮮やかな模様が評判を呼び、ヨーロッパ市場で非常に高い人気を博しました

15世紀に入ると、ポルトガルやスペインによる大航海時代が始まり、インドや東南アジアとの直接貿易が本格化します

これにより、高品質なインド綿布が大量にヨーロッパにもたらされ、綿製品の需要は一気に拡大していったのです

「綿の都」誕生

18世紀後半から19世紀初頭にかけて、イギリスを中心に起こった産業革命において、綿工業はその象徴的な存在となりました

綿紡績業の発展は技術革新と密接に結びついており、「ジェニー紡績機」や「水力紡績機」、「ミュール紡績機」といった新たな機械の発明が、生産性を飛躍的に高めていきます

急速に需要が拡大した綿の需要に応える形で、マンチェスターやランカシャーなど、イングランド北部には多くの綿工場が建設され、「世界の工場」と呼ばれるまでになりました

特にマンチェスターは綿工業の中心地として急成長し、「綿の都」とも称されました

この時期、綿はイギリスの最大の輸出品となり、国家経済の基盤を支える存在でした
そして労働力を供給するため、農村から都市への人口移動が進み、「労働者階級」の形成にもつながったのです

同時に、この急速な産業化は、労働条件の悪化や児童労働、環境汚染といった新たな社会問題も引き起こしました

これらは後の労働運動や社会改革の契機となります

綿がもたらした人類の悲劇と抵抗

綿産業の拡大は、ヨーロッパ諸国の植民地政策とも密接に関わっています

原料となる綿花の安定供給を確保するため、イギリスはアメリカ南部、エジプト、インドなどの地域に目を向け、それらの地域を綿花の生産地として取り込みました

その中でもアメリカでは、南部のプランテーションで多くの黒人奴隷が綿花栽培に従事させられ、奴隷制度の維持と綿産業が密接に結びついていったのです

そのうえ、イギリスが奴隷貿易に加担し、その利益を綿産業に再投資した歴史は、ヨーロッパの富の蓄積と倫理的矛盾を象徴しているとも言えるでしょう

こうした情勢の中、インドではマハトマ・ガンディーが綿布(カディ)の自給自足運動を通じて、イギリス製品のボイコットと民族独立運動を展開しました

このように、綿は単なる商品にとどまらず、植民地支配と抵抗、経済的搾取と解放の象徴ともなっていたのです

歴史を動かし続ける綿

19世紀以降、綿製品はヨーロッパの一般家庭に広く浸透し、衣服だけでなく寝具や装飾品など多岐にわたる用途で使用されるようになりました

綿の普及は衛生観念の向上や日常生活の快適性の向上にも貢献し、近代的な生活スタイルの形成を支えたのです

また、綿工業の発展はヨーロッパ諸国における技術革新と教育の推進にもつながりました
技術学校の設立や女性労働者の増加など、社会構造にも大きな変化をもたらします
さらに、綿製品のデザインや染色技術の発展は、装飾芸術やファッション文化にも多大な影響を与えました

第一次世界大戦後の経済の変動期においても、綿は依然として重要な産業として位置づけられ、グローバル経済の構造に大きな影響を与え続けました
このように、綿は単なる繊維素材にとどまらず、「歴史を動かす力」としての役割を果たしてきたのです

一見すると身近な素材である「綿」ですが、その歴史をたどると、産業革命を支えた原動力であると同時に、植民地主義や奴隷制度と深く関わりながら、社会構造や文化にまで大きな影響を及ぼしてきた事が分かります。

綿の歴史を学ぶことは、経済の発展と倫理の両立を考えるうえで非常に重要です

私たちが日常的に使っている素材の背後にある歴史に目を向けることは、過去の教訓から学び、より公正な未来を築くための第一歩となるでしょう

参考文献:『世界史を大きく動かした植物』/稲垣 栄洋(著)
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

身近な「綿」は「羊が木から生えている」という伝承(?)迷信(?)から始まったようです

一見すると身近な素材である「綿」ですが、その歴史をたどると、産業革命を支えた原動力であると同時に、植民地主義や奴隷制度と深く関わりながら、社会構造や文化にまで大きな影響を及ぼしてきた事が分かります。

綿の歴史を学ぶことは、経済の発展と倫理の両立を考えるうえで非常に重要です

私たちが日常的に使っている素材の背後にある歴史に目を向けることは、過去の教訓から学び、より公正な未来を築くための第一歩となるでしょう




 

 


一粒の小麦から文明が生まれ、茶の魔力がアヘン戦争を起こした
私たちは人類の歴史について、よく知っている
少なくとも、そう思っている
しかし、本当にそうだろうか
人類は植物を栽培することによって農耕をはじめ、その技術は文明を生みだした
植物は富を生みだし、人々は富を生みだす植物に翻弄された。人口が増えれば、大量の作物が必要となる
作物の栽培は、食糧と富を生み出し、やがては国を生み出し、そこから大国を作りだした
富を奪い合って人々は争い合い、植物は戦争の引き金にもなった
兵士たちが戦い続けるためにも食べ物がいる
植物を制したものが、世界の覇権を獲得していった
植物がなければ、人々は飢える
人々は植物を求め、植物を育てる土地を求めて彷徨った
そして、国は栄え、国は亡び、植物によって、人々は幸福になり、植物によって人々は不幸になった
歴史は、人々の営みによって紡がれてきた
しかし、その営みには植物は欠くことができない
人類の歴史の影には、常に植物の存在があったのだ
さあ、人類と植物が紡いだ壮大なドラマの始まりである

日本には古くから、「妖怪」と呼ばれる不思議な存在が語り継がれてきました

科学が進歩した現代においても、妖怪の目撃談や言い伝えは各地に残っており、人々の生活や文化と深く結びついています

この記事では、全国各地に伝わる有名な妖怪伝
説を5つ厳選し、その背景や特徴、現地での扱われ方についてご紹介します

地方に根付く“日本の不思議”を、あなたも一緒にのぞいてみませんか?


① 河童(かっぱ)|全国各地

河童は、日本でもっとも広く知られた妖怪のひとつ

主に川や池などの水辺に住み、甲羅を背負い、頭には皿のような水の溜まるくぼみを持つ姿で描かれます

いたずら好きで、人間の尻子玉を抜くといった伝承もありますが、一方で礼儀正しい面もあり、キュウリを供えると喜ぶという話も

特に有名なのが福岡県久留米市の「河童伝説」

地元では河童を祀る神社もあり、地域に親しまれる存在です

また、岩手県遠野市では「河童淵」と呼ばれるスポットがあり、観光名所にもなっています

現代ではキャラクター化されることも多く、恐ろしさよりも親しみやすさを持った存在として語り継がれています



② 天狗(てんぐ)|高尾山(東京都)・鞍馬山(京都府)など

山に住む霊的存在として古くから崇拝されてきた天狗は、赤い顔に長い鼻、背中に羽を持ち、空を飛ぶ力を持つとされます

武道の達人として描かれることも多く、人里離れた山奥で修行する山伏の姿と重ねられることもしばしば

東京都八王子市の高尾山や、京都の鞍馬山は天狗伝説で有名なスポット

これらの地では、天狗を山の守護神として祀り、今も神聖な存在として扱われています

とくに鞍馬山の天狗は源義経と関係があるとされ、義経に剣術を授けたという伝説も

天狗の存在は、自然の中にある“畏敬の念”を象徴しており、現代人にもその神秘性が受け入れられています

③ 一反木綿(いったんもめん)|鹿児島県肝付町

布のような細長い体で空を飛び、人にまとわりついて窒息させるという恐ろしい妖怪

一反木綿は、鹿児島県肝付町を中心に語られる南九州の伝説です

その名前のとおり“一反”(約10メートル)ほどの布状の姿で、夜になると空を舞うといわれています

しかし、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』に登場して以降は、かわいらしいキャラクターとして全国的に有名になり、怖い妖怪から愛される存在へと変化しました

肝付町では一反木綿をモチーフにした土産や像もあり、地域の観光資源としても活用されています

④ のっぺらぼう|東京都(番町皿屋敷など)

のっぺらぼうは、顔に目鼻口がまったくない人間のような姿をした妖怪で、江戸時代の怪談に頻繁に登場します

最も有名なのが、東京都千代田区に伝わる「番町皿屋敷」の話に登場するバリエーション

人々が夜道を歩いていると、突然現れた人の顔が“つるり”と何もないのっぺらぼうであったという描写が多く、心理的な恐怖を煽るタイプの妖怪です

直接危害を加えることは少ないものの、「見てはいけないものを見てしまった」ような背筋の凍る感覚を与えます

現代でも都市伝説やホラー作品にたびたび登場し、そのインパクトは色あせることがありません

⑤ 座敷童子(ざしきわらし)|岩手県・遠野市

座敷童子は、東北地方を中心に語られる福の神的存在

子どもの姿で家の中に現れ、その家に幸運をもたらすと言われています

逆に、姿を見なくなると不幸が訪れるとも

特に有名なのが、岩手県遠野市にある「緑風荘」

座敷童子の目撃談が多発し、“出る宿”として一躍有名になりました

実際に泊まった人の中には「宝くじが当たった」「事業が成功した」といった話も多数あり、スピリチュアル好きの間では“人生が変わる宿”として知られています

妖怪でありながら「会いたい」と願われる数少ない存在です

おわりに

妖怪は単なる迷信や昔話ではなく、地域文化や自然信仰、人々の感情が反映された“日本の精神的遺産”です

今回紹介した5つの妖怪は、いずれも土地に根付き、今も人々の記憶や文化に生き続けています

怖いけれど、どこか魅力的

そんな妖怪たちを知ることで、日本の奥深い不思議世界に一歩足を踏み入れてみてはいかがでしょうか?

(この記事はFUNDOの記事で作りました)

本記事で紹介の5妖怪は日本の妖怪でもメジャーですね

一反木綿は「ゲゲゲの鬼太郎」でも・・・

座敷わらしは幸運を呼ぶ妖怪として知られます


 

 


妖怪マンガの第一人者・水木しげるの日本妖怪図鑑
本書は、『図説 日本妖怪大全』と『図説 日本妖怪大鑑』をあわせて、再編集し、改題したものです

絶世の美女

6世紀の中国北朝
隋が約300年ぶりに中華を再統一するおよそ40年ほど前、戦乱の中から興った短命の王朝・北斉に、一人の皇后がいた

彼女の名は、李祖娥(り そが)

趙郡平棘県(現在の河北省趙県)に生まれ、父の李希宗は北斉の前身・東魏の地方官だった
母は名門・博陵崔氏の出で、李祖娥は中原系の漢人の家系に連なる女性だった

彼女は、ただの名家の娘ではなかった

『北斉書』には「容德甚美」、つまり容姿と人徳のどちらにも優れていたと記されており、清代の文人・鵝湖逸士は「李祖娥は古今に類なき絶世の美女」と称え、西施や王昭君と並び称している

だがその美貌と家柄に恵まれた皇后が、やがて宮廷の権力闘争に巻き込まれ、辱めと暴力の果てに、歴史に類を見ない凄惨な結末を迎えることになるとは、誰が予想しただろうか

正史に記された唯一の「ある刑罰」を受けた皇后・李祖娥の数奇な運命をひもといていく


運命を変えた結婚

李祖娥の運命を大きく変えたのは、東魏の実力者・高歓(こうかん)の決断だった

彼女の美しさに目をつけた高歓は、息子の高洋に彼女を娶らせた

しかし高洋は「肌は黒ずみ、頬は垂れ下がり、体は鱗のような皮膚病に覆われていた」とされ、醜悪な見た目で知られていた『※北史・高洋本紀』

その結婚は、李祖娥にとっても望んだものではなかったが、高歓の命令に逆らえる者などいなかった

やがて550年、高洋は東魏を簒奪し、自ら北斉の皇帝・文宣帝を名乗る

しかし、彼にとって悩ましい問題がひとつあった

それは「誰を皇后に立てるか」である

この時、高洋の側近たちの意見は割れていた

彼の一族である高氏は、鮮卑(せんぴ)と呼ばれる北方民族の出自を持っていた
そのため、宮廷内では漢人に対する一定の差別意識が根強く残っていたのだ

宗室の側近である高隆之や高徳正は、「漢人の女性は天下の母にふさわしくない」として、北方貴族出身の段昭儀を皇后に立てるべきだと進言した

一方、尚書令の楊愔(よういん)は「漢魏の旧制に従うべき」として、正妻の李祖娥を皇后とするべきだと強く主張した

最終的に高洋は、楊愔の意見を採用し、李祖娥を皇后に立てた

北方の武骨な政権において、漢人の女性が正室として皇后に立てられるのは異例のことであった
とはいえ、即位直後の宮廷では、彼女の立場は比較的安定していた

高洋は後宮の妃たちをしばしば殴り、時に命を奪うことさえあったが、李祖娥には礼を尽くして大事に接していたという

彼女は高洋とのあいだに二人の子、高殷(こう いん)と高紹徳(こう しょうとく)をもうけ、皇后として、母としての地位を築いていった

だが、この安定は長くは続かなかった

宮廷を揺るがす陰謀と裏切り

559年、文宣帝こと高洋が、突然崩御してしまった
享年はわずか34

後継として、長男の高殷(こう いん)が第2代皇帝として即位した

年若き新帝を補佐するため、先帝の遺詔により、楊愔を中心とする文臣派(漢人が多い)が政務を担うこととなった

皇后だった李祖娥は、皇太后として新たな地位を得る
だが、この新体制には早くも不穏な空気が漂い始めていた

最大の問題は、高殷の叔父たち、常山王・高演(こう えん)と長広王・高湛(こう たん)の存在だった

いずれも武名と人望を兼ね備えた強力な宗室であり、皇帝の座を狙う潜在的な脅威と見なされていた
そこで補佐役の楊愔らは、彼らを地方へ追放して実権を揺るぎないものにしようと画策した

この陰謀に、李祖娥も巻き込まれていくこととなる

当時、太皇太后である娄昭君(ろうしょうくん ※高殷の祖母)のもとにいた宮人が、この陰謀の一部を李祖娥から聞き出し、娄昭君に密告してしまったのである

この密告が引き金となり、ついに高演・高湛ら叔父たちが動いた

彼らは楊愔らを拘束し、そのまま軍を率いて宮廷に突入した
娄昭君もその場に現れ、李祖娥と若き皇帝・高殷は、ただ立ち尽くすしかなかった

実はこのとき、宮殿の外には先帝・高洋が残した近衛兵2千人が待機していた

しかし、まだ10代半ばの少年皇帝だった高殷には、とっさに軍を動かすだけの判断力も経験も備わっていなかった

やがて祖母の娄昭君は激昂し、高殷に詰め寄った

「どうして私と息子たちが、あの下賤な漢人の憎たらしい女に操られなければならぬのか!」

李祖娥はその罵声に震えながら、地にひれ伏して謝罪するしかなかった

そして叔父の高演は、表面上は皇帝・高殷に頭を下げつつも、反乱の正当性を主張した

高殷はついに屈し、「皇位は叔父殿に譲る!私は下がるので、漢人たちは好きに処置してほしい」と言い残し、政権を手放してしまった

こうして、楊愔ら忠臣は次々と処刑されてしまったのである

560年、高演は正式に皇帝に即位し、北斉の第3代皇帝・孝昭帝となった

李祖娥は皇太后の称号を剥奪され、名目上「皇后」に戻されたうえで昭信宮へ移された
形式的には呼称の変更にすぎなかったが、実際には宮廷から完全に排除され、政治的影響力を失うこととなった

かつては「天下の母」とまで称された李祖娥だったが、その地位を追われ、北斉王朝の中で完全に孤立していったのだ

義弟・高湛との悲劇的な関係

だが、そのわずか1年後の561年、高演は急逝し、弟の高湛(こうたん)が北斉の第4代皇帝・武成帝として即位した

しかし、新たな皇帝の関心は、政務よりも私情に傾いていた
彼が真っ先に目をつけたのが、兄・高洋の正室であり、かつての皇太后・李祖娥であった

実は高湛は、兄の未亡人である李祖娥の美貌に、以前から惹かれていたのである
そして夫・高洋の死後、孤立した李祖娥には、もはや支えてくれる後ろ盾は存在していなかった

そんなある日、高湛は彼女に対し、こう脅した

「もし私の望みを拒めば、お前の息子を殺すぞ」

息子の命を人質に取られた李祖娥は、屈辱に耐えながらもこの暴君の欲望に従い、体を許すしかなかった
そして間もなく、彼女の胎内には高湛の子が宿ることとなる

それからしばらくして、彼女の次男・高紹徳が昭信宮を訪ねてきた
しかし李祖娥は、懐妊の事実を隠すため、息子に会うことを拒んだ

門前で足止めを食らった高紹徳は怒りを爆発させ、「母上が懐妊されていて、私を避けていることくらい、わからぬとでも思っているのか!」と叫んだ

この言葉は、李祖娥の胸に深く突き刺さった
脅迫されて身を委ね、望まぬ妊娠を背負い、そのうえ息子からも激しくなじられたのである

やがて女児を出産するが、李祖娥はその子を抱くこともなく、そのまま放置した
『北齊書』には「生女不舉」とあり、つまり生まれた娘は育てられることなく命を落としたのである

恥と絶望が、母としての本能さえ押し殺してしまったのだった

だが、彼女の本当の地獄はここからであった

歴史に刻まれた「史上最大級の屈辱」

この出来事は当然、高湛の逆鱗に触れた

自分の娘を殺されたと知るや、怒り狂った高湛はまず高紹徳を呼び出し、李祖娥の目の前で彼に詰め寄った

「お前の母が私の娘を殺したのだから、私はお前を殺す!」

その場で高湛は剣を振り下ろし、高紹徳を斬り殺してしまった

愛する息子を目の前で失った李祖娥は、声を張り上げて慟哭した
しかし、高湛の怒りは収まらなかった

彼は李祖娥の衣を剥ぎ取り、なんと裸のまま鞭で打ちすえた

『北齊書』には「裸后亂撾撻之、號天不已(皇后の衣を剥ぎ取って乱打すると、彼女は天を仰いで泣き叫んだ)」とある
これは正史に残る唯一の「裸刑」の記録である

この辱めは尊厳を剥奪し、母としての愛情を踏みにじり、皇后としての地位を地に落とす、精神的にも肉体的にも極限の暴虐であった

さらに『北齊書』には、「盛以絹囊,流血淋漉,投諸渠水」と続く
李祖娥は傷だらけのまま絹袋に詰められ、水路に投げ捨てられてしまったのである

正妻として、かつて皇太后にも上り詰めた女性が、ここまで徹底的に貶められた前例はない
他にも暴力を受けた皇后の記録はあるが、裸にされ、打ちすえられ、袋詰めにされ、水中へと捨てられたのは、李祖娥ただ一人である

しかし、彼女は奇跡的に命をとりとめた

その後、牛車に乗せられ、都を離れて妙勝寺へ送られた
『北齊書』には「犢車載送妙勝尼寺」とある
犢車(とくしゃ)とは本来、庶民や罪人の移送に使われる粗末な牛車のことであり、皇后のような高貴な身分の女性が乗るものではない
つまりこれは、李祖娥の地位と尊厳をさらに踏みにじる、最大級の侮辱であった

妙勝寺で李祖娥は剃髪し、尼としての余生を送ることとなる

やがて十数年の時が流れ、577年に北斉は北周によって滅ぼされ、李祖娥は長安へと連行されて囚われの身となった
その後、隋が建国された581年になって、ようやく故郷・趙郡へ戻ることが許された

以後、彼女の名は正史の記録から消える
だがその数奇な運命は、隋・唐の時代に至っても語り継がれ、皇后という最高位の女性が受けた屈辱として、人々の記憶に深く刻まれていった

彼女がどんな最期を迎えたのかはわかっていない
ただ一つ確かなのは、李祖娥こそが、中国正史に記された唯一の「裸刑を受けた皇后」であったという事実である

参考 : 『北齊書』巻九 補列傳第一 後宮列伝、巻四 文宣四王伝、『資治通鑑』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

6世紀の中国北朝
隋が約300年ぶりに中華を再統一するおよそ40年ほど前、戦乱の中から興った短命の王朝・北斉に、一人の皇后がいた

彼女の名は、李祖娥(り そが)

趙郡平棘県(現在の河北省趙県)に生まれ、父の李希宗は北斉の前身・東魏の地方官だった
母は名門・博陵崔氏の出で、李祖娥は中原系の漢人の家系に連なる女性だった

彼女は、ただの名家の娘ではなかった

『北斉書』には「容德甚美」、つまり容姿と人徳のどちらにも優れていたと記されており、清代の文人・鵝湖逸士は「李祖娥は古今に類なき絶世の美女」と称え、西施や王昭君と並び称している

だがその美貌と家柄に恵まれた皇后が、やがて宮廷の権力闘争に巻き込まれ、辱めと暴力の果てに、歴史に類を見ない凄惨な結末を迎えることになるとは、誰が予想しただろうか


やがて李祖娥は権力闘争に巻き込まれる・・・


そして叔父の高演は、表面上は皇帝・高殷に頭を下げつつも、反乱の正当性を主張した

高殷はついに屈し、「皇位は叔父殿に譲る!私は下がるので、漢人たちは好きに処置してほしい」と言い残し、政権を手放してしまった

こうして、楊愔ら忠臣は次々と処刑されてしまったのである

560年、高演は正式に皇帝に即位し、北斉の第3代皇帝・孝昭帝となった

李祖娥は皇太后の称号を剥奪され、名目上「皇后」に戻されたうえで昭信宮へ移された
形式的には呼称の変更にすぎなかったが、実際には宮廷から完全に排除され、政治的影響力を失うこととなった

かつては「天下の母」とまで称された李祖娥だったが、その地位を追われ、北斉王朝の中で完全に孤立していったのだ

義弟・高湛との悲劇的な関係

だが、そのわずか1年後の561年、高演は急逝し、弟の高湛(こうたん)が北斉の第4代皇帝・武成帝として即位した

しかし、新たな皇帝の関心は、政務よりも私情に傾いていた
彼が真っ先に目をつけたのが、兄・高洋の正室であり、かつての皇太后・李祖娥であった

実は高湛は、兄の未亡人である李祖娥の美貌に、以前から惹かれていたのである
そして夫・高洋の死後、孤立した李祖娥には、もはや支えてくれる後ろ盾は存在していなかった

そんなある日、高湛は彼女に対し、こう脅した

「もし私の望みを拒めば、お前の息子を殺すぞ」

息子の命を人質に取られた李祖娥は、屈辱に耐えながらもこの暴君の欲望に従い、体を許すしかなかった
そして間もなく、彼女の胎内には高湛の子が宿ることとなる

それからしばらくして、彼女の次男・高紹徳が昭信宮を訪ねてきた
しかし李祖娥は、懐妊の事実を隠すため、息子に会うことを拒んだ

門前で足止めを食らった高紹徳は怒りを爆発させ、「母上が懐妊されていて、私を避けていることくらい、わからぬとでも思っているのか!」と叫んだ

この言葉は、李祖娥の胸に深く突き刺さった
脅迫されて身を委ね、望まぬ妊娠を背負い、そのうえ息子からも激しくなじられたのである

やがて女児を出産するが、李祖娥はその子を抱くこともなく、そのまま放置した
『北齊書』には「生女不舉」とあり、つまり生まれた娘は育てられることなく命を落としたのである

恥と絶望が、母としての本能さえ押し殺してしまったのだった

だが、彼女の本当の地獄はここからであった

歴史に刻まれた「史上最大級の屈辱」

この出来事は当然、高湛の逆鱗に触れた

自分の娘を殺されたと知るや、怒り狂った高湛はまず高紹徳を呼び出し、李祖娥の目の前で彼に詰め寄った

「お前の母が私の娘を殺したのだから、私はお前を殺す!」

その場で高湛は剣を振り下ろし、高紹徳を斬り殺してしまった

愛する息子を目の前で失った李祖娥は、声を張り上げて慟哭した
しかし、高湛の怒りは収まらなかった

彼は李祖娥の衣を剥ぎ取り、なんと裸のまま鞭で打ちすえた

『北齊書』には「裸后亂撾撻之、號天不已(皇后の衣を剥ぎ取って乱打すると、彼女は天を仰いで泣き叫んだ)」とある
これは正史に残る唯一の「裸刑」の記録である

この辱めは尊厳を剥奪し、母としての愛情を踏みにじり、皇后としての地位を地に落とす、精神的にも肉体的にも極限の暴虐であった

さらに『北齊書』には、「盛以絹囊,流血淋漉,投諸渠水」と続く
李祖娥は傷だらけのまま絹袋に詰められ、水路に投げ捨てられてしまったのである

正妻として、かつて皇太后にも上り詰めた女性が、ここまで徹底的に貶められた前例はない
他にも暴力を受けた皇后の記録はあるが、裸にされ、打ちすえられ、袋詰めにされ、水中へと捨てられたのは、李祖娥ただ一人である

しかし、彼女は奇跡的に命をとりとめた

その後、牛車に乗せられ、都を離れて妙勝寺へ送られた
『北齊書』には「犢車載送妙勝尼寺」とある
犢車(とくしゃ)とは本来、庶民や罪人の移送に使われる粗末な牛車のことであり、皇后のような高貴な身分の女性が乗るものではない
つまりこれは、李祖娥の地位と尊厳をさらに踏みにじる、最大級の侮辱であった

妙勝寺で李祖娥は剃髪し、尼としての余生を送ることとなる

やがて十数年の時が流れ、577年に北斉は北周によって滅ぼされ、李祖娥は長安へと連行されて囚われの身となった
その後、隋が建国された581年になって、ようやく故郷・趙郡へ戻ることが許された

以後、彼女の名は正史の記録から消える
だがその数奇な運命は、隋・唐の時代に至っても語り継がれ、皇后という最高位の女性が受けた屈辱として、人々の記憶に深く刻まれていった

彼女がどんな最期を迎えたのかはわかっていない
ただ一つ確かなのは、李祖娥こそが、中国正史に記された唯一の「裸刑を受けた皇后」であったという事実である



 

 


2012年に放送された『宮廷女官 若曦(ジャクギ)』以降、中国時代劇は日本でも多くのファンを獲得し続けています
今の中国時代劇は、韓流時代劇の影響を強く受けており、華やかな王宮絵巻、そして皇帝と皇后の恋愛を絡めた作りのものが少なくありません
本書は、堅い中国史の本ではなく、中国時代劇で中国史に興味を持った方たちに向けた一冊です
ドラマに出てくる皇帝と皇后たちの愛と運命、中国の歴代王朝の成立から崩壊、当時の生活様式や社会制度などを分かりやすく紹介していきます