豊田泰光は、チャンスに強い勝負強い強打者で、遊撃手は守備が優先された時代に強打の攻撃的な遊撃手であり、2番打者はつなぎの役割が多かったが、攻撃的な2番打者でもあった・・・
水戸商で1952年の夏に甲子園に出場するが、2回戦敗退・・・
大学進学も考えたが、父の病気などで、進学をあきらめ、西鉄入団へ・・・
1953年西鉄に入団し、守備で失策は多かったが、強打の遊撃手としてレギュラーとなり、115試合で、打率2割8分1厘、27本塁打、59打点、25盗塁で新人王・・・
27本塁打は、当時の新人最多記録・・・
2年目の1954年は、自身の打撃成績は落ちるが、チームはリーグ優勝・・・
1956年は、首位打者・・・
中西太と熾烈な首位打者争いをした、僅かに豊田がリードで、最終戦は、監督の三原脩が豊田と中西に休養を命じたため、豊田が首位打者に・・・
(二人の話し合いで、このままの成績で二人が休養したといわれる)
ちなみに、1956年の豊田の打率は3割2分5厘1毛、中西の打率が3割2分4厘7毛・・・
この年は、日本シリーズで活躍し、日本一に貢献し日本シリーズMVP・・・
豊田は、他の年の日本シリーズでも活躍した・・・
その後も超攻撃的な「流線形打線」の2番打者で、活躍・・・
「流線形打線」は、攻撃的な強打の2番打者を置くことがポイントで、豊田はその役割を見事に担った・・・
1956年から1958年の3年連続日本一の頃の西鉄がプロ野球史上最強だったという人も・・・
1962年に中西選手兼監督の補佐で選手兼助監督を務めるが、このシーズン限りで助監督を辞め、選手専念で1963年に国鉄スワローズに移籍・・・
国鉄移籍後も2年間は中心打者で成績を残すが、3年目以後は成績が低下し、出場機会も減り、1967年に105試合に出場するが、次の年から2桁試合出場で1969年に現役引退・・・
チームは1965年途中からサンケイ、1969年からアトムズに名称変更・・・
引退後は、解説者やコーチなどを務めた・・・
2006年に野球殿堂入り(日本)・・・
2016年に死去、81歳没・・・
強打の遊撃手であり、前述のように、超攻撃的「流線形打線」でポイントの強打の攻撃的2番打者を担った・・・
守備は上手いとはいえなかったが、2番打者によく見られる俊足であり、強打者でもあり、「流線形打線」に豊田は重要な存在だった・・・
1956年の日本シリーズMVP(他の年の日本シリーズも活躍)でもわかるように、日本シリーズなど大試合に強く、チャンスに強い勝負強い強打者だった・・・
打撃成績・・・
17年、打率2割7分7厘、263本塁打、888打点
新人王、首位打者1回
最高出塁率2回(当時は表彰なし)
日本シリーズMVP1回
野球殿堂入り(日本)(2006年)