あれからもう1週間 | Watashi Dame Zettai by MOAChans

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【明治3年】1870年9月19日「平民苗字許可令」

 明治新政府は、平民苗字許可令を出します。これはつまり、「これからは庶民でも苗字を使うことを“許可”します」というものです。

 これにより、公家出身の「華族」や、武士出身の「士族」ではない平民でも苗字を名乗ってもよいことになりました。しかし庶民にとっては苗字を名乗るようになると、新たに課税がされるのではないかと警戒して、名字の届け出を行う庶民は少なく普及しませんでした。いきなり苗字を名乗ってよいといわれて戸惑り、何かウラがあると思われていたのでしょう。現代でいうところのマイナンバー制度の導入経緯に似た部分があるといえます。

【明治4年】1871年「戸籍法」制定

 通称「壬申戸籍(明治5年戸籍)」編成のために戸籍法が制定され、苗字の登録が推進されました。この壬申戸籍は「家」を単位として国民を把握するもので、現在のように「夫婦・親子関係」を単位とするものではありません。

【明治4年】1871年「姓尸不称令(せいしふしょうれい)」

 この太政官布告によって、今後の公文書に「姓尸(せいし)」=先に紹介した「氏(うじ)と姓(かばね)」を表記せず、「苗字」と「実名(本名)」の2つの要素で表記すると定めました。これにより、古代から続いてきた氏(うじ)と姓(かばね)は廃止され「苗字」に集約されることになり、現代と同じ「苗字」と「名前」の時代が到来したことになります。

【明治5年】1872年「複名禁止令」

 通称と実名、どちらか一方を名とすべきと布告が出されました。

【明治5年】1872年「改名禁止令」

 すでに登録済みの苗字の変更を禁止しました。個人の識別のための苗字だったことから、安易な変更を禁じたのです。

【明治8年】1875年2月13日「苗字必称義務令」

 苗字の登録が普及しないため、1875年に新政府は改めて名字の使用を“義務づける”太政官布告を出します。これにより、「これからは庶民も必ず苗字を使いなさい」「苗字がわからない人は新しくつけて、その苗字を使いなさい」という命令が出たことになります。上の戸籍法と合わせて苗字の登録が促され、自分の苗字がない(わからない)人は新しく苗字をつけなくてはならなくなったのです。

(家樹:myoji

 

「事実婚」とは、婚姻届を役所に提出して戸籍上の夫婦となる「法律婚」に対し、婚姻届を提出せずに夫婦と同じ共同生活を送る結婚の形を指します。一見同棲と似ていますが、事実婚は共同生活を送っているだけでなく、お互いが夫婦であるという意思を持ち、周囲から夫婦と認められている点が特徴です。(マイナビウェディング:68533

 

 事実婚とは、婚姻事実関係一般を意味する概念。「事実婚」の概念は多義的に用いられ、婚姻の成立方式としての「事実婚」は「無式婚」ともいい要式婚と対置される概念であるが、通常、日本では「事実婚」は法律婚に対する概念として用いられている。ウィキペディア

 

 結婚には縁がない人生だったので、「何もいえない」状況ではあるのだが、では何のために結婚するのか、何のために“選択的”夫婦別姓にしてまで“結婚状態”を維持するのか。一方の苗字を名乗ることによるデメリットよりも結婚ということはメリットがあるのか。

 

 結婚の最優先事項は、“営巣して子をなすこと”に他ならないと私は思っている。

 夫婦生活というものは自分らの生活を含めて、子どもを良き労働者、良き労働者に育成することだと私は思っている。

 鶏と卵の問題にもなるが、苗字なんて二の次だと思うな。

 個人も社会もあまりにも言霊の下に入りすぎていると思う。

 

 文明開花の頃に庶民が苗字をつけなければならないようになり、なぜそのようになったのかということを顧みることもなかった。法律を変える方法はいくらでもあるように思える。

 結婚、夫婦、氏名についてもっと行政と個人がコンテクストを整理するのが先決だと思う、

 ある意味、訴訟している場合ではないのではないだろうか。

  

 たまたま昨日は「増えつつける性犯罪」の番組を見てしまったのであるが、たまたまそこにシェリー氏が東條して、“若年者のセクシャル・コミュニケーション”的な性教育の重要性を訴えていらっしゃった。

 “こういうことをすると、コウノトリが赤ちゃん運んできますよ”という生物学的な教育もわからんでもないが、その行動には“営巣して子どもを一端の労働者・納税者に育てなければならないという覚悟”が必要だが、父母を見ていてどう思うか、若年者は往々にして“セクシャル・コミュニケーション”に盲目的に突き進む。盲目的だと手に負えない。

 

 

 「国際女性デー」だったからなのかぁ。「国際男性デー」ってあったっけか?

 ぼちぼち男性の方が社会的弱者になるんじゃないか?

 とりあえず「国際孤独死予定者デー」なんてのも用意してもらおうか。

 

 

 私は、鳥山明先生の作品にはどうも馴染まないので、ニュースワイドショーで先生逝去のニュースの占有時間が長いのは、“オオタニサン・リファレンス”と大差はない。

 「すべての人間がドクタースランプ”や“ドラゴンボール”のファン」であるかのような報道は過剰だと思う。

 何故にこの国のニュース番組は抑揚が強いのか。