一行は城下から離れ、海沿いの道を向かった。奇怪な形をした岩のような島が点々と見える。どんよりとした分厚い雲の中で、雷鳴が聞こえる。
「痛たた」
後ろを振り向いた踊り子は門衛に声をかけた。
「どうした?下痢でも起こした?」
門衛は腹を抱えて呻いた。
「もう一歩も歩けません」
輿に乗っていた副使は顔をしかめた。
「だから食後の饅頭はやめておけと言ったんだ」
踊り子が先頭の大師に向かって叫んだ。
「大師、門衛が下痢だって」その大きな声に対馬の侍たちまでがクスクスと笑った。
先頭を歩いていた行首が前方に集落を見つけた。
「あ、あそこで休みましょう」
大師も笑いながら言った。
「そうだな。少し休ませてもらおうか」
村の入り口に大勢の子供たちがいた。その中から杖を突いた老人が出てきた。島主が前に出て言った。
「我々は朝鮮通信使。幕府の客人である。ここでしばし休ませてもらいたい」
老人は恵比須顔で手を拱いた。
「どうぞどうぞ。遠くからお疲れでしょう。私は村長です。公儀からのお達しは聞いておりまする。まあ、まずこちらへ」
村の入り口には立札があった。
「蘇民将来子孫也。疫病退散」
大師は横目でその立札を見て尋ねた。
「ご老人、これは何かね?」
島主が訳す。
「はあ、これは昔、外つ国より来られた神が言い置いたものです。これを見れば、病魔が避けて通ります」
「病魔が?それはよい。門衛、お主の体にも貼るか?」
腹を抱えて脂汗を流していた門衛は、目を白黒させた。
「蘇民将来…子孫…」陶姫は口の中で呟いた。ポツリと村長に聞く。
「その神様は、男の神様?」
村長の目が大きく開いた。
「そうじゃ。とても荒ぶる神じゃが…どうしてそれを?」
「その神…」
「あ、思い出した」踊り子が叫んだ。
「ジュリアを探しに行った時、聞かれたんだ」
「何て?」行首が聞いた。
「蘇民将来子孫か豈かって。真っ白なひげじいさんに」
「真っ白なひげじいさん?」
「そう、神社があって、名前を『韓神新羅神社』って…」
「カラ…?新羅…?ウリナラ(我が国)のことじゃないか」
「そう、な?本当だよな?」踊り子は少年に首を向けた。
少年は黙って頷いた。
「ささ、こちらでおくつろぎくだされ」
一行は村長とその隣人の家に分かれて休んだ。蒸かし芋が出される。踊り子と陶姫は顔を見合わせて喜んだ。その時、庭に子供たちが入って来た。芸人の一人がふと興に乗ってチャンゴを叩いてみせた。子供たちは面白がって踊り始める。芸人の男達は子供に帽子を被せる。娘たちは手を取って踊ってみせた。瞬く間に子供たちは踊りを覚えた。娘たちと一緒にくるくると回り、男たちの鼓笛に合わせて飛び跳ねた。誰からともなく拍手が起こった。
子供のひとりが大師の前に立って手を差し出した。その手に紙が握られている。大師は穏やかな顔でその紙を受け取り、子供に韓の菓子をあげて頭を撫でた。大師はその紙を開いた。
「国書。裏神社」
大師は小用をたすふりをしてその場を離れた。村長の家の裏に、その神社があった。
『疫神社』と額に見えた。
「来たな」社の後ろから清海が現れた。首の回りに太い数珠をかけ、黒い袈裟は垢で煤けている。清海は錫杖を大地に突き立てた。
大師は杖で地面に文字を書いた。
国書何処
清海は胸から国書を取り出すと、無造作に放り出した。大師が腰を屈めて拾い上げたところを、頭めがけて錫杖を振り降ろす。鉄どうしのぶつかり合う音がした。大師は両手で錫杖を持ち、清海の錫杖を受け止めている。大師の右足が土にめり込んだ。清海の顔に笑みが表れた。反対に大師の顔が赤らむ。錫杖がギリギリと音を立てた。
「大師、水くさいよ」
清海が振り返ると、そこに踊り子、少年、行首、対馬の侍たちがいた。
「お前はもう逃げられん」対馬島主が前に出て言った。
「逃げる?そんなことはしない」
言うなり清海は錫杖で傍に居た対馬侍の頭を勝ち割った。
「うわ」叫んだのは踊り子だった。
「つ、強い…」行首も口を開けた。
清海はそばにあった松の木の根に錫杖を叩きつけた。松の木は根元から折れ、一行に倒れてくる。避けそこなった侍が下敷きになった。残りの侍は腰を抜かした。
「逃げろ」大師が叫んだ。
「え?逃げるの?」
「適うやつはいない」
「で、でもたった一人なのに…」
「これ以上、誰も死なせられない」大師は島主に言った。
「対馬、侍を退かせろ」
「何を言う?こちらが対峙している間に、大師こそ逃げろ」
「わかった。無用な抵抗はするな」その間に錫杖が落ちてきた。錫杖は地鳴りを起こした。怪物の足音のようだった。一行は急に戦意を失った。人間でないものを相手にしているような恐怖に、胃の中から突き上げられた。一行は走った。目の前に川がある。後ろを振り返ると、清海が錫杖を振り回しながら迫って来た。その時草叢から縄が飛んで清海の足に巻き付いた。清海は勢い余って倒れた。その体にクナイが飛んだ。清海は辛うじて躱した。クナイの飛んで来た茂みから、黒覆面の男が立ち上がった。その時回りの草叢から煙が立ち昇った。
「清海、大丈夫か?火の外に出ろ」
回りから柿色の服に全身を包んだ数人の男達が出てきた。
「半蔵、観念しろ。お前は火に囲まれたのだ」
火は川風に煽られ、瞬く間に広がった。煙の中で咳をする音がした。踊り子は咄嗟に川に入った。陸に上がって火の中に入ろうとする。その体を背後から抱き留められた。振り返ると少年が空を指した。その瞬間雷鳴が轟き、豪雨が降って来た。視界から急に色が失われ、真っ暗ななかに閃光が見えた。雨の音で人の声がかき消される。大師は一行を近くに集めた。
「皆無事か?」
踊り子、少年、行首、島主、対馬の侍たち…死んだ二人を除いて、皆無事だった。
「半蔵がいたぞ」島主が口を開いた。
「半蔵は、俺たちをあの入道から救ってくれた」行首が頷く。
「半蔵は敵なのか?味方なのか?」少年が誰にともなく聞いた。踊り子は首を横に振った。
「皆ご苦労だった。おかげで国書は戻った」
大師の言葉に、島主は大きく目を見張った。