踊り子の眼が、開いた。満月が、瞳の中に飛び込んできた。
(何か、起きようとしている…?大師に?)
踊り子は、重い体を無理やり起き上がらせると、大師の寝所に向かった。
大師の寝所には、人の気配がなかった。踊り子は首を傾げ、部屋の前で声をかけた。
「大師、大師?」
暗がりの中で、何かの音を聞いた。水が湧き出る音に似ていた。
「大師?いるの?開けるよ」
踊り子は音を立てて障子を開けた。暗がりの中に布団がほの白く見える、上掛けがめくれている。大師はいなかった。布団に触ると、まだ温かかった。
部屋の隅に、くの字に曲がった短刀のようなものがあった。歯の部分が血で濡れている。それを拾って腰に差した。
(さっきの音は?)
踊り子は外に出た。月の光に目がくらんだ。視界を何かが横切った。後を追おうとしたとき、茂みで呻き声が聞こえた。
「大師?」
黒装束の男が、植え込みの中に倒れていた。口から血を噴出している。大師ではなかった。
(さっき聞いたのは、この音だ。)
踊り子は逃げた男の後を追おうとした。その時廊下の外れにある厠の扉が開いた。
「大師」踊り子が大声をあげた。大師は腹をさすって出て来た。
「どうも、腹の具合が悪い。ちと飲みすぎたか」ぶつぶつと言いながら踊り子に笑顔を見せた。
「大師。人が倒れて、そこの植え込みに…」指を差した茂みには人がいなかった。
「あれ?」踊り子は頭を掻いた。
「人が、どうかしたのか?」
「人が倒れていた。そこの植え込みに…口から血を噴出してたんだ。それからもう一人、黒い影が逃げていった」
「黒い、影が?」大師は踊り子の指さす方へ目を凝らして見た。月が雲の中へ入り、辺りはまた見えなくなった。
「うむ、良く見えん。もう逃げたか」
「大師。此処は危険だ。誰かが大師の命を狙っているのかも…」そう言って踊り子は首を傾げた。
(あれ、狙われたのは大師だとすると、倒れていた人は?)
「大師、倭の中で争っていた。何故だろ?」
「ふむ…」大師の返事は、途中からあくびになった。
「もう寝るとするか」
「でも…」
「今晩は、もう来るまい。安心して休め」
その時、風が踊り子の項を撫でた。
「お休み」そう言って大師は部屋に入った。
(何かが、起きている。)
踊り子は、先ほどの影の消えた後を追った。満月の煌々と照らす草原の道を、なだらかな丘に向かって踊り子は歩いていた。時折小石を拾っては懐に入れる。目指しているのは島主の屋敷だった。風にそよぐススキの群れが、ざわっと音を立てる。踊り子の耳は、その中に微かな草摺れの音を捉えていた。誰かが後をつけてきている。それは草の中を移動している。踊り子は足を止めた。風を切る音がした。踊り子は咄嗟にくの字の短刀で跳ね返した。地面に突き刺さったそれは、棒状の武器だった。踊り子は草叢の中を、影と並行して走った。礫を立て続けに放つ。五つ目で相手の動きが止まった。
(日頃練習していた目隠しの石投げ芸が、役に立った。)
踊り子はにこりとした。すると、三方向から草摺れの音がした。三者は踊り子の回りを、円を描くように走った。その円から上に何かが投げあげられた。それは踊り子の真上で二つに分かれた。その放物線の間に網が拡がり、踊り子の頭上にふわりと落ちて来た。次の瞬間、踊り子は大地に縛り付けられていた。どこかでククッと笑いが漏れた。三方向から殺気が漂ってきた。踊り子の脇の下に汗が流れた。
すると顔を押さえつけていた網が音を立てて切れた。踊り子に向かっていた殺気が急に方向を変えた。
「おい、お前ら」その言葉は聞きなれた韓語だった。
どこかで短い口笛が鳴った。それを聞くと殺気は急に去っていった。
踊り子が網を退けようともがくと、急に上半身が抱き起された。
「待たせたな」少年の顔が踊り子を覗いた。
踊り子の顔から緊張感が解け、思わず吹き出して大笑いした。その時、踊り子の来た方角が明るくなった。見ると火の手が上がっている。大師の宿舎のあるあたりだ。
「いけない。大師が危ない」踊り子の声に弾かれたように、二人は火に向かって走った。
宿舎は火に包まれていた。濛々と煙が上がっている。人々は横にあった川の水を汲み上げ、宿舎に水を放っていた。少年の目に異様な光が宿った。
(もう沢山だ。)
少年は川に飛び込んだ。濡れた体で岸に上がると、袖を口に当て燃える家に入っていった。人々の叫び声が空気を震わせた。どこかで、ごくりと喉の鳴る音がした。
家の中で木の折れる音がした。橙色に染まった家の中から、二つの影が揺らいで見えた。それは次第にはっきりとした人の形となり、しっかりとした足取りで家の外に出て来た。二人の体からは白煙が夜空へ昇っていったが、火傷ひとつ負わなかった。人々は奇跡だと噂し合った。
踊り子は少年に駆け寄ると、両腕を少年の肩に預けてオイオイと泣いた。少年は鼻をもぞもぞと動かした。その目が立ち見していた若い男と合った。男はスッと暗がりへ消えた。一行が大師と少年の周りに集まって来た。
「大師、お怪我は?よくご無事で」
「少年、よくやった」
「お前どうして対馬まで来れたんだ?」
「いきなり現れやがってこのやろ」
「一番おいしいところ持っていきやがって」
少年は質問攻めに逢いながら、皆の顔を見て微笑んだ。踊り子はチラと少年の顔を身ながら大師に言った。
「大師、これでこいつも仲間入りさせてもいいですよね?」
大師は穏やかな顔で少年に言った。
「宿題は、仕上げたのか?」
少年は大師と目を合わせて言った。
「はい」
「よかろう。だがこれは覚えておくがよい。お前の瞳には獣が宿っておる。その獣を野に放たぬように、常に見張っておるのだ」
少年の顔が輝いた。
「はい」
行首が口を開きかけた。
「よかったな。これからは…」
踊り子が行首の口真似で言った。
「一層精進しろよ」
行首が踊り子を睨んだ。
「それは俺の…オイ待て」
少年は行首と踊り子の姿を目で追いかけながら、思った。
(さっきの男は、誰だろう?)
一行は近くの寺へと宿営を変える事になった。検分に当たった代官からは、出火は台所の不始末という報告がもたらされた。台所近くの寝所からは、下女の焼死体が見つかった。
翌朝、一行の宿営している寺に、島主が訪ねて来た。
「大師殿、お怪我はありませんでしたか?この度は大変な不始末。こうしてお詫びに参りました」開口一番、島主は頭を下げた。その顔には笑みが張り付いていた。
「お見舞い、感謝する。この通り、無事で居る」大師は、天気の話でもするかのようにのんびりと答えた。
島主は束の間大師の顔を見た。その顔に険しい表情はなかった。島主の肩から力が抜けていった。
「ところで、大師殿」
大師は笑みを浮かべて、じっと島主を見た。島主は一瞬不思議そうな表情をしたが、そのまま続けた。
「ちと問題がおきましてな」
「問題とは、何かな?」
「それが…出航は難しゅうございます」
「出航が難しい?」
「大きな声では言えぬが、この先いささか物騒でござってな…」後の言葉を切って、島主は目配せした。
「ほう、物騒とは、また何故?」
島主は相手の顔を値踏みするように見て、口をつぐんだ。
「…」
「我ら一向に、仇なす輩がいると申すか?」
島主は、微かに頷いた。
「成る程、物騒なことだの」
「はい、そこで相談ですが、返書は手前が預かり、日本国大君にお渡ししましょう」
大師の目が細くなった。
「いやなに、ここからお国までは一衣帯水。近うございますが、ここから大君のいるところまでは遥か遠く、何もわざわざそんな苦労なさらずとも、我々にお任せくだされば、悪いようにはいたしませぬ」
大師の口から笑みが消えた。島主の脇の下に汗が滴り落ちた。
「豈、我らは旅の労を厭わぬ」そして島主をじっと見た。
「因みにお主は、どちらに徒するのじゃ?」
島主は不意に腹を撫でられたような錯覚を持った。
「我らは、通信使一行を歓迎しております」
「ふむ。だが困ったの。我らは通信使にあらず。お主らの本音を探る、探賊使である」
島主の顔がこわばった。
「また、拉致された我が民を連れ戻しに来た、刷還使でもある」
「つまり、お主に会っただけで帰るわけにはいかん。源家康と会わねばなるまいて」
「いや、しばしお待ちを。お使者の意向はそれがしが家康殿にお伝えする。また刷還の儀は何としても実現するよう、家康殿を説得致そう。だから…」
「お主、何故家康に会わせたくないのだ?」
「あ、いや…」続きの言葉を探そうと、島主は目を泳がせた。遠くで郭公の声が聞こえた。
「ではこうしましょう。我らはこれより通信使の一行のお伴を仕る。万が一の警護にござる」
大師は、島主の顔にじっと視線を注いだ。
「それはありがたい。安心して道を進められる。ところで、そうまでしてくれるお主の望みは何だ?」
「我らの望みは…」島主は大師の眼を跳ね返すように、真っ直ぐに見据えた。
「元の如く、倭館を置かせていただきたい」
「倭館…とな?」大師の眉が上がった。
「それには、誼を通じねば、の?」
「はっ」
「お互い、今少しよく知らねば、の?」