朝から雲が空一面を覆っていた。踊り子は空を見上げて足を速めた。
(なんだよ朝っぱらから水汲みって、まったく行首もいつもいつも…)
踊り子は、ふと昨晩の事が気になった。
(壺だの陶器だのって、今度の旅とどんな関係があるんだ?)
(それに…陶姫って、大師とどんな関係なんだろ?)
踊り子は、自分たちが大師に見られたのではないかと気になって立ち止まった。自分が水汲みを命じられたのは…しかも朝っぱらから…あいつも汲んでるはずなのに。
(まさか…まさかね。)
歩き出してからも、ある事が頭から離れなくなった。自分がいない間に、あいつを…?
踊り子は急に今来た方向に向き直った。回りを歩く人たちが踊り子に視線を注ぐ。踊り子は、急に走り出した。雨が、ポツポツと降り始めた。
少年は、水をたっぷりと満たしたまま、小走りに移動した。水面には波紋ひとつ立たない。水を一滴も零さず運ぶことが、少年の秘かな楽しみとなっていた。煮炊きする場所が見えたところで、少年は急に足を止めた。反動で、大半の水が零れた。そこには大師が立っていた。
「ほう、チマ姿がなかなかよく似合っているではないか。そんな趣味があったとはのう」大師の笑い声が辺りに響き渡った。近くにいた人々が、一斉に飛んで来た。
「あ、大師様。これは、わざわざ足をお運びいただき…いや、あの…」給仕長が手を拱いてその場を取り繕おうとした。
「給仕長か、いつも旨い飯をありがとう。ところで」少年の方を振り返り、
「この者を、しばし借りても、よろしいかな?」
給仕長はごくりと喉を鳴らして、頷いた。
「では、借りよう。そこな少女よ。ついて参れ」大師は満面に笑みを湛えたまま、廃墟の中へと入っていった。少年はその後を黙ってついて行った。
鳥の声が、急に騒がしく聞こえて来た。大師は岩の上ににどっかりと座り込んだまま、腕を組み、瞑目していた。少年はもぞもぞと脚を動かした。同じ態勢でいることに、苦痛を感じ始めていた。鳥の声が、静まった。
大師はくわっと目を開け、少年の顔を睨んだ。
「お前は、連れては行けぬ」その声は大音声で、ほとんど喝のように辺りに響いた。少年の顔が熱くなった。
「何故だ。俺がこの国に身を置けない事を知っているくせに、何故?」
「理由を知れば、諦めるのか?」大師はさらに声を荒げた。
「いや、諦めない。でも直すよ。俺に悪いところがあるのならさ」
「お前は、何の為に倭に行くのだ?」
「そ、それは…」
少年は、死の間際の母の言葉を思い出した。
(わしが、耳を噛みちぎった。それが…お前の父親…)
「父親を探すつもりか?」
大師の言葉に、少年は、答えをためらった。
「お前には、猛き荒ぶる血が、流れておる」大師は、静かな声で言った。
少年は大師の顔を見た。その顔には、憂いがあった。
「お前はきっと、彼の地で騒ぎを起こすであろう」大師は一言ずつ区切るようにして話した。
「儂の仕事はな、彼の地に攫われた人々を連れ戻すことなのだよ」
「お前に騒ぎを起こされるのがわかっているのに、連れてゆくわけにはいかない」
「何故、俺を獣扱いするんだ?俺は、騒ぎを起こさないようにするよ」少年は必死な形相になった。
「これまでだって、息をひそめる様にして、生きてきたんだ。倭に行ったって、目立たないようにするよ」
「どうしても、行きたいか?」
少年は、黙って頭を下げた。
大師は、すっと立ち上がった。
「ついて参れ」
大師は少年を連れて、近くの山に入っていった。
踊り子が煮炊き場に駈け込むと、給仕係が話をしていた。
「アジュマ(おばさん)、何があったの?」
「いいところに来た。あの娘が大師に連れて行かれたのさ。あの子、男ってバレてね」
「大師は、それでどっちへ行ったの?」
「それがね。よくわからないんだよ。なんだか様子を伺うことも憚られるような雰囲気でさ」
「ありがと」踊り子は駆け出して行った。その背中へ向かって、おばさんが言葉を投げた。
「大師はもう帰ってきているよ」
踊り子の足がピタッと止まった。肩の筋肉が盛り上がり、息が荒くなる。一度深呼吸をして息を整えると、一歩一歩足を踏みしめる様にして大師のいるところに進んで行った。
洞窟の天井から水が落ちて、少年の首筋に入った。寒気が背筋を降りていき、少年の体がぶるっと震えた。目の前には書が積み上げられていた。これを読み、それを書く。大師に言いつかった事は、それだけだった。目の前の書を全部。三日のうちに。
生まれてこの方、少年は書という物を読んだことが無かった。いつも面倒くさくなって、途中で放り出していた。そのツケが今になって、ここにうづ高く積み上げられている。
(何で、俺だけこんな目にあうんだ。)
(何で皿洗いでついて行っては、いけないんだ。)
(できっこないことを言いつけて、ワザと追い出そうとするなんて、酷いじゃないか。)
(こんなもん、どうせできっこないんだ。)
(いっそ諦めるか。)
(もう何もかもいやになった。)
(こんなとこ、逃げ出してやるか。)
目の前の蝋燭の炎が、ユラユラと揺れて、眠気を誘った。その蝋燭を見ているうちに、少年の眉間のあたりにあったじりじりとした焦りが、すうっと溶けていった。少年の体が、ゆっくりと前後に揺れる。蝋燭の炎が、どんどんと近づいて来た。どこか遠くで、耳鳴りのような音がした。
洞窟の奥から一陣の風が巻き起こった。その風は冷気を伴って少年の顔を撫で、蝋燭の炎を消した。辺りは急に漆黒の闇になった。蝋の匂いが辺りに充満した。ふと、少年は闇の中に何かの気配を感じ取った。それはしばらく前からそこにうずくまっていた。
(前に、同じ事があった。)
闇の中のものは、自ら動きを封じたかのように、泰然としていた。だがそれは濃い霧のように、曖昧模糊としていた。少年の体毛が逆立っている。それは、複数に分裂していった。
(苦しい…ここは、どこだ?)
(何も、聞こえない。匂わない。見えない。)
(痛い…痛い。)
(斬られた…奴らに。川の中に…捨てられた。)
(苦しい…ここは、どこだ?)
少年の体が、小刻みに震えだした。
(おれは、俺はここに居られない。逃げなきゃ。ここから早く逃げ出さなきゃ。)
少年は腰を浮かした。
(俺は、大師の思うつぼに嵌まって、結局逃げ出すのか?)
~ お前は、結局逃げるのだな?
それは、張りのある女性の声だった。
「誰だ?」少年は洞窟に向かって声を荒げた。
~ 我が名は、五虎宮主。
洞窟のそちこちが、青く光り始めた。苔が連絡を取り合うかのように、秘かな光を瞬かせる。
~ そしてお前は、我が子の土地を侵し、無辜の民を殺した我が鬼子。見るがよい。
岩壁が青く光った。そこに湿原が映っていた。泥水の中に、人の顔が浮かんでいた。老婆の顔、若い女の顔、赤子の顔。小さな体が、一列に並んでいた。そこに大師の姿があった。回りに枯草を積み上げていた。そして火をつけた。
~ よく見よ。そしてそれでも…。
女性の声が、急に途絶えた。そしてそれに代わって、苦しみの喘ぎ声が続いた。悲鳴、怒号、号泣、あらゆる声が少年の頭の中に響いた。少年はいたたまれなくなった。仄かな苔の光を頼りに、硯に水を差し、墨を擦り始めた。
踊り子は桟橋の先端で、頬杖をついて座り込んでいた。
「船が、出るぞ」横に行首が立った。
「もう、諦めろ」
「うん…」
「さあ」行首は踊り子の手を引っ張り上げた。
「これも、運命だ。あの子とは、ここまでの縁だったのさ」
「うん…」
「お前は、お前で、倭に行くべき理由があっただろ?」
「うん…」
「元気出せ。いつものお前らしくもない」
「うん…」
桟橋から小舟に乗り、さらに沖に停泊している大船に乗り移るまでの間、踊り子は「うん…」としか返事しなかった。
富山甫の南岸が、次第に遠くへ霞んでいく。踊り子は陸地を見ているのが嫌になって、舳の方へと回った。そこはあたり一面の大海原だった。踊り子は潮を含んだ大気を思い切り吸い込んだ。分厚い雲が海を荒れさせていた。波が高い。心臓の鼓動が聞こえて来た。船はゆっくりと大波を乗り越え、海坂を滑り降りてゆく。気が付くと、人々が舳に集まってきていた。旅芸人の仲間たち。少し離れて副使と門衛の男。その陶姫も、行く手の大波に向かって険しい顔をしていた。そしてその隣に、大師が仁王のように立っていた。
「あ、あれそうじゃないか?」遠目のきく芸人の一人が叫んだ。
「今…島が見えた。あれがテマル(対馬)島では?」
「へっ?まさか、そんな近いのか?少し前に富山甫を出たばかりなのに」
沖の端に、海鳥とも見間違う黒い点が見えた。人々は自分の目を疑った。倭の地がこれほど近いことに、改めて気づかされた。しかしその黒い点は、一向に大きくならなかった。どれほど時間が経っても、距離は縮まらなかった。永遠に近づくことはできないのではないかと、人々は思った。